【序章・・・ゴジラ生誕60周年】
2014年7月25日、アメリカ映画『ゴジラ』がいよいよ日本で公開されました。同作は3D映画であり、ゴジラの3D映画としては1994年にサンリオピューロランドで上映された『怪獣プラネット ゴジラ』(監督=川北紘一、音楽=伊福部昭)以来2本目となります。そして2014年はゴジラ生誕60周年の記念すべき年であり、同時に、ゴジラの音楽や鳴き声を手掛けた作曲家・伊福部昭の生誕100周年の年でもあります。
ゴジラ生誕60周年、伊福部昭生誕100周年という2つの節目の年に当たる本年は、まさに特撮怪獣映画の歴史を振り返る年として相応しい年です。本稿では、ゴジラ60年の歴史を振り返ってみたいと思います。合わせて、2014年公開のアメリカ映画『ゴジラ』の製作総指揮が、かつて特撮映画に携わった坂野義光という日本人であることから、坂野が今までに携わった特撮作品にも注目したいと思います。
ゴジラ60年の歴史を振り返るにあたって、私は、敢えてゴジラシリーズという名称や、ゴジラシリーズ何作という表現は使わずに本稿を進めたいと思います。
私がゴジラシリーズという括りを使わない理由は、世間でゴジラシリーズと呼ばれる映画とゴジラが登場しない映画に共通の人物、怪獣、超兵器、音楽が登場しており、中にはゴジラシリーズと呼ばれる映画がゴジラが登場しない映画の後日談だということもあるからです。特に1960年代は、「ゴジラシリーズ」という枠組みで作品が製作されていたとは考え難いと思います。読者の皆様のご理解を賜れれば幸いです。
ついでと言っては何ですが、アメリカ版『ゴジラ』の続篇にはラドン、モスラ、キングギドラも登場するそうですので、この機会に今までのラドン、モスラ、キングギドラの活躍もおさらいしておきましょう。
また本稿におきましては、怪獣映画・特撮映画或いは大衆文化の歴史の中で、ゴジラがどのような立場に置かれていたかを解説しようと考えております。そのため、ゴジラは東宝の怪獣ではあるものの、東宝以外の作品にも必要に応じて言及したいと思います。東宝以外の特撮映画にも目を向けないと、ゴジラの歴史を理解するのは不可能であるためです。どうぞ皆様のご理解を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。
【第1章・・・円谷英二、東宝に復帰】
まずは1954年の東宝映画『ゴジラ』から見ていきたいところですが、その前日談として、東宝で多くの特撮映画を作りゴールデントリオと呼ばれた製作・田中友幸、本篇監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二が『ゴジラ』以前に手掛けた映画をご紹介しておきます。
ゴールデントリオの一人、円谷英二は、戦前から東宝映画の特撮を手掛けており、戦時中には『ハワイマレー沖海戦』という大ヒット作の特撮を担当しました。この時の特撮スタッフに川上景司、渡辺明、上村貞夫らがおり、また、円谷が課長を務めた特殊技術課の線画室(今で言うアニメ部門)に鷺巣富雄(うしおそうじ)がいました。
太平洋戦争後、GHQから公職追放指定を受け東宝を離れた円谷英二は、1952年に東宝に復帰し、本多猪四郎監督、田中友幸製作の映画『港へ来た男』の特撮を担当します。これが円谷の東宝復帰後第1作となりました。昭和20年代に円谷は東宝以外の会社の特撮も手掛けていまして、例えば1953年の松竹映画『沖縄健児隊』では、戦前に円谷の一番弟子だったものの1943年に松竹に移籍した川上景司と共に特撮を担当。この頃、松竹の特撮スタッフに矢島信男がいました。
そして1953年には東宝でいよいよ本格的な特撮映画『太平洋の鷲』(本篇監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二)が製作されます。戦時中の映画『ハワイマレー沖海戦』『加藤隼戦闘隊』『雷撃隊出動』の特撮シーンを使い回していましたが、これはやむを得ないでしょう。1954年にも製作・田中友幸、本篇監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二で『さらばラバウル』を作り、そして『ゴジラ』に至るのです。1990年代の各種『ゴジラVS○○』映画のパンフレットに掲載された田中友幸のプロフィールでは、田中と円谷が作った映画として『さらばラバウル』が挙げられています。
【第2章・・・ゴジラ誕生】
この頃、円谷は大蛸の怪獣映画を構想していました。一方、田中友幸はビキニ環礁での水爆実験やそれに伴う第五福竜丸事件、更にアメリカ映画『原子怪獣現わる』を元に、同水爆実験によって恐竜が安眠を妨げられ、日本にやってくるという映画を立案しました。結局、恐竜案が採用されることになり、これが『ゴジラ』になる訳です。因みに円谷はよっぽど大蛸を描きたかったと見えて、その後、何度も大蛸を作品に登場させます。
さて、製作・田中友幸、本篇監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二のゴールデントリオによって1954年に作られた『ゴジラ』ですが、その特徴は、やはり核の恐怖や戦争の記憶が色濃く反映されていることでしょう。
ゴジラの襲撃を受けて灰燼に帰した東京の街並みは、リアルタイム世代にとっては太平洋戦争を彷彿とさせるものだったと推測されます。「また疎開か」という台詞や、避難してきた少女にガイガーカウンターを向けたら反応する場面、手当てを受ける大量の負傷者といったショッキングな場面も描かれています。因みに東宝は、1955年にも水爆実験を題材にした映画『いきものの記録』を公開しています。
特撮面においては、ゴジラを、縫いぐるみの中に人が入って演技するという方法で表現したのが特徴となっています。アメリカの怪獣映画では、人形アニメーションを用いたり、本物のトカゲを使ったりしていましたが、人形アニメーションは時間がかかるので、縫いぐるみを使うことになりました。ゴジラの中に入ったのは中島春雄と手塚勝巳です。とは言いつつ、ゴジラの尻尾がチョロチョロする描写は人形アニメーションで表現しています。因みに円谷はその後『キングコング対ゴジラ』でもちょっとだけ人形アニメーションを使っています。
続いて音声の話を申し上げます。音楽を手掛けたのは伊福部昭。伊福部はゴジラの鳴き声もコントラバスで作りました。ゴジラの鳴き声と共にタイトル画面が表れ、スタッフロールの前半では音楽が流れずゴジラの鳴き声と足音が響き渡るという冒頭部分は、大変なインパクトを与えました(ゴジラの足音は、劇中でも観客に恐怖を与えています)。そしてスタッフロールで「音楽 伊福部昭」という文字が中央に来たタイミングで有名な「ゴジラのテーマ」が流れます。
「ドシラ・ドシラ・ドシラソラシドシラ」
という「ゴジラのテーマ」は本作の時点で既に映画のテーマ曲として使用されていますが、劇中では人類の兵器や消防車のテーマ曲として流れています。ゴジラのテーマ曲として流れているのは
「ラーソラシーラシドーシドレードレミーラーレドシラ」
という「ゴジラの猛威」という曲で、後の映画でも「ゴジラの恐怖」という曲名でゴジラのテーマ曲として使用されています。
さて、1954年の『ゴジラ』のクライマックスでは、科学者・芹沢大助博士(演・平田昭彦)が発明した液体中の酸素破壊剤・オキシジェンデストロイヤーでゴジラを退治しますが、オキシジェンデストロイヤーが軍事利用されることを恐れた芹沢博士は、自らの死と共にその設計図を葬ったのでありました。映画のラストで山根恭平博士(演・志村喬)は次のように呟きます。
「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかに現れてくるかもしれない。」
この台詞は、核兵器を開発し続ける国際社会への警句でありました。
『ゴジラ』は大ヒットを記録したため、すぐさま続篇の製作が決定しました。かくして1955年に公開されたのが『ゴジラの逆襲』です。本篇監督は小田基義、音楽は佐藤勝に交代しました。
本稿では円谷英二の肩書を特技監督と表記していましたが、始めて「特技監督 円谷英二」とクレジットされたのが本作です(しかも1枚タイトル)。それまで円谷の肩書は「特殊技術」でした。また、1954年の『透明人間』のタイトルクレジットでは「特技指導」でした。但し、『透明人間』のポスターでは円谷の肩書が特技監督になっていますし、戦時中の映画の資料では円谷の肩書が特殊技術監督と記されているものがあるそうです。その後、1959年の『潜水艦イー57降伏せず』が、円谷が「特殊技術」としてクレジットされた最後の作品となります。
『ゴジラの逆襲』では、山根博士の予想通り2匹目のゴジラが出現。これが2代目ゴジラと呼ばれるゴジラで、身長は初代と同じく50メートル。以降1975年の『メカゴジラの逆襲』まで、この2代目ゴジラが活躍したとされています。
『ゴジラの逆襲』でゴジラの対戦相手となったのが暴龍アンギラス。太古の恐竜アンキロサウルスが水爆実験によって現代に目覚めた怪獣です。『ゴジラ』では東京がゴジラに襲われましたが、『ゴジラの逆襲』では大阪で両怪獣が戦うこととなります。怪獣映画の定番となる怪獣同士の戦いは本作から始まったと言えます。しかし怪獣同士の戦いは中盤で終ってしましました。
後半はいかにして人類がゴジラを退治するかという点に主眼が置かれ、ゴジラと航空機の戦いの場面となります。そしてゴジラは航空機によって洋上の氷山に生き埋めにされ、『キングコング対ゴジラ』まで氷山の中で7年間の眠りに就くのでありました。
また同年、人間よりやや大きいぐらいの怪獣を描いた映画『獣人雪男』(本篇監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二、音楽・佐藤勝)も公開されました。
【第3章・・・ラドン、阿蘇山より飛来】
1956年に東宝は、次なる巨大怪獣映画『空の大怪獣ラドン』(本篇監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二、音楽・伊福部昭)を公開します。同作が東宝初の総天然色怪獣映画となりました(東宝初の総天然色特撮映画は同年の『白夫人の妖恋』)。『ゴジラ』の東京、『ゴジラの逆襲』の大阪と来て、本作は熊本県→長崎県→福岡県が舞台となりました。
ストーリーは阿蘇山の炭鉱における鉱夫の喧嘩から始まり、殺人事件、古代のヤゴ・メガヌロンの出現を経てラドンの出現に至ります。この辺りのストーリーの盛り上げ方が実に巧い。円谷英二は若い頃、飛行機の操縦士になりたかったこともあって、佐世保上空で航空自衛隊がラドンを攻撃するシーンは、円谷の本領発揮と言えます。因みにこの場面でラドンが西海橋を破壊するのですが、破壊した時の編輯が後の出崎統のアニメみたいです。
佐世保を経てラドンは福岡に襲来します。西海橋の場面でも、ラドンが中洲を通過する場面でも、本多監督の本篇班による現地の映像の後に円谷監督の特技班によるミニチュアの映像が登場するのですが、この転換が非常にスムーズに行われています。
さて、阿蘇山から現れ福岡を襲撃したラドンはまた阿蘇山に帰っていきますが、自衛隊のミサイル攻撃に伴う噴火で焼け死ぬのでありました。溶岩のシーンは溶かした鉄で撮影したため、ラドンを吊るしたピアノ線が焼き切れてしまい、本当にラドンが力尽きているような映像になりました。撮影のアクシデントすら映像の出来を高めてしまうところが特撮の魅力の1つですね。
本作で流れたラドンのテーマ曲は、有名な2代目ラドンのテーマ曲とは別の曲で、観客の不安を煽るような曲となっています。
【第4章・・・宇宙時代の到来】
ところで1950年代は、米蘇による宇宙開発競争が盛んに繰り広げられた時代であります。それに触発された邦画界は、空想科学映画を矢継ぎ早に放つのでありました。1956年には日本初の総天然色特撮映画でもある『宇宙人東京に現る』(本篇監督・島耕二、特撮監督・的場徹、音楽・大森盛太郎。宇宙人・パイラ人のデザインは岡本太郎)、国光映画(新東宝配給)『空飛ぶ円盤恐怖の襲撃』(本篇監督・関沢新一、特撮監督・上村貞夫、音楽・草川哲)が公開。
1957年には東宝が満を持して日本初のシネマスコープ特撮映画『地球防衛軍』(本篇監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二、音楽・伊福部昭)を公開しました。この作品は多彩な超兵器が入り乱れる作品であり、小松崎茂がメカニックデザインを務めました。
伊福部昭による「地球防衛軍マーチ」に乗って繰り広げられる戦闘シーンは迫力があり、自衛隊員がロボット怪獣・モゲラ(後に1994年の『ゴジラVSスペースゴジラ』で再登場する)に向かって火炎放射器で攻撃するシーンでは、本篇シーンと特撮シーンの切り替わりが実に見事で、同一空間のような仕上がりになっています。これなどは本多監督の本篇班と円谷監督の特技班が巧みに連携していたことを示しています。
また、戦闘機が宇宙人ミステリアンの基地・ミステリアンドームを攻撃するシーンでは、戦闘機の視点からミステリアンドームを撮影し、まるで観客が戦闘機に乗っているかのような錯覚を与えています(いわゆる主観映像。その後の怪獣映画でもこのようなキャメラアングルがしばしば見られる)。因みに『地球防衛軍』をはじめとして、昭和30年代の東宝特撮映画は、資本主義諸国と社会主義諸国が地球の危機に一致団結する物語がよく見られます。冷戦時代における願いを感じますね。
余談ですが、BS朝日のテレビ番組『昭和偉人伝』で漫画家・やなせたかしを取り上げた時、やなせが『地球防衛軍』の特技美術スタッフをしている写真が放送されたのでびっくりしました。
1958年には、アメリカからテレビドラマとして発注されて制作されたものの結局劇場用映画となった『大怪獣バラン』(本篇監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二、音楽・伊福部昭)が公開されました。バランのテーマ曲のメロディは後に2代目ラドンのテーマ曲になります。
1959年には『地球防衛軍』に続く超科学戦争映画第2弾『宇宙大戦争』(本篇監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二、音楽・伊福部昭)が公開。まるで観客自身が月を探検しているかのようなエアークッション探検車の飛行シーン、伊福部昭の「宇宙大戦争マーチ」に乗って繰り広げられる手に汗握る戦闘シーン、宇宙人・ナタール人が地球上のビル街に向けて重力をなくす光線を発射する大迫力のシーン等、見事なシーンの連続です。
【第5章・・・大作『モスラ』、世界に向けて羽ばたく】
ところで昭和30年代は、大作特撮映画が次々と公開された時期でした。
例えば、
1957年の新東宝映画『明治天皇と日露大戦争』(本篇監督・渡辺邦男、特撮監督・上村貞夫、黒田武一郎、音楽・鈴木静一)
1958年の大映映画『日蓮と蒙古大襲来』(本篇監督・渡辺邦男、特撮監督・不明、音楽・山田栄一)
1959年の大映映画『山田長政 王者の剣』(本篇監督・加戸敏、特撮監督・不明、音楽・鈴木静一)
同、東宝映画『日本誕生』(本篇監督・稲垣浩、特技監督・円谷英二、音楽・伊福部昭)
1960年の東宝映画『太平洋の嵐』(本篇監督・松林宗恵、特技監督・円谷英二、音楽・團伊玖磨)
1961年の東宝映画『モスラ』(本篇監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二、音楽・古関裕而)
同、東宝映画『世界大戦争』(本篇監督・松林宗恵、特技監督・円谷英二、音楽・團伊玖磨)
同、大映映画『釈迦』(本篇監督・三隅研次、特撮監督・横田達之、相坂操一、音楽・伊福部昭)
1962年の大映映画『秦・始皇帝』(本篇監督・田中重雄、特撮監督・中村大十郎、音楽・伊福部昭)
等です。
東宝映画にも新東宝映画にも大映映画にも田崎潤が出演しているのが面白い。『モスラ』については後回しにしてゆっくり語るとして、他の映画にちょろっとコメントを加えておきます。
『日本誕生』は、クライマックスの天変地異のシーンが見所です。兵士が地割れに呑み込まれ、更に火山が噴火して溶岩が襲いかかってくるのですが、地割れは本篇の実物大セットで表現され、溶岩は特技班が溶けた鉄で表現して合成されました。そこで画面をよく見ると、合成された溶岩が到達したタイミングで兵士が死んでいるんです。稲垣監督の本篇班と円谷監督の特技班による絶妙なコンビネーションですね。
『太平洋の嵐』は、すごく泣けるシーンがあるのですが、別の記事で詳しく紹介しましたのでここでは繰り返しません。特撮面では、広さ1万平方メートルのプールが建造され(いわゆる東宝大プール)、全長13メートルの空母のミニチュアを浮かべて撮影されました。
『世界大戦争』は、團伊玖磨の音楽を背景にしてフランキー堺が息子を大学に入れてやるんだと絶叫する場面は涙なくしては見られません。
『釈迦』の劇伴は、今年生誕100周年を迎えた伊福部昭の映画音楽の中で、私の一番好きな作品です。超大作映画に相応しい壮大な楽曲です。今年、神奈川県川崎市で開催された伊福部昭生誕100年記念コンサートでは、映画音楽と同じメロディが登場する「交響頌偈 釈迦」が演奏されました。
そしていよいよ『モスラ』の話に移ります。それまでの怪獣映画と違い、『モスラ』はファンタジー映画の雰囲気を漂わせた作品となっています。南海の孤島インファント島の守護神という設定や、小美人(演・ザ・ピーナッツ)という妖精の存在など。モスラは蛾の怪獣であるものの、その後も女性に高い人気を誇っています。
モスラ最大の特徴は、卵→幼虫→繭→成虫という具合に変態する点です。モスラ幼虫は大小の造型物で撮影されたのですが、大きいものは何と中に8人もの人が並んで入る縫いぐるみでした。モスラ幼虫は東京タワーに繭を張って成虫になります。繭からモスラ成虫が出てくる時の、羽根を広げる描写がとてもリアルです。
特撮面で私が最も高く評価しているのが、モスラ幼虫がダムを破壊し、濁流が押し寄せる橋の上からフランキー堺が赤ん坊を助け出す場面です。この場面における合成は非常に完成度の高いものでした。
モスラ幼虫が渋谷を進撃する場面におけるミニチュアセットも大変な規模です。劇中、現在では109がある場所のミニチュアセットが登場するのですが、現在とは全然違う景色なのでびっくりします。音楽面では、古関裕而によるスペクタクル性溢れる劇伴が作品を盛り上げました。ラストの曲も、平和を感じさせる名曲です。そして特筆すべきは、小美人が歌った「モスラの歌」でしょう。作曲は古関裕而、歌詞は田中友幸、本多猪四郎、関沢新一が作詞した歌詞がインドネシア語に翻訳されたものです。古関裕而が音楽を手掛けた怪獣映画はこれ1本なのですが、その後もモスラのテーマソングとして、古関裕而が音楽を手掛けていない映画でも妖精が歌い継ぎました。
第2回に続きます。
参考文献は最終回に記載します。
(文:コートク)