結婚式は多くの新郎新婦にとって、一生のうちにただ一度であろう晴れの舞台。挙げる側も祝う側も、幸せな空気に満ちあふれる場であるはずですが……近頃はこうした価値観は古くなっているのでしょうか。

 ネットで話題になっているのは「お世話になった人を結婚式に呼ぶのは理解できない」という意見。筆者としては理解しがたい考えですが、これに賛否両論の意見が飛び交い、物議を醸しています。

■ お世話になったからこそ気が引ける、という価値観

 議論となっている主張は、「お世話になった人だからこそ、貴重な休みやお金を使わせ、ドレス姿や生い立ちを見せて場の空気で拍手や笑顔を強いる、一日気を遣わせてまで祝ってもらうのは気が引ける」というもの。

 なるほど、たしかに捉え方によってはそうなのかもしれません。式は基本的に週末開催、参列するにはそれなりのご祝儀を包む必要がありますし、生まれてから結婚に至るまでの映像を流すのは披露宴における定番の演出。式を挙げる側の都合に合わせて、”祝ってもらう””無理に祝わせる”という行為は気が引けるという考えなのでしょう。

 これに賛同する方も一定数おり、「わかるから結婚式したくない」などの声が。入籍はするが式は挙げなかったり、写真撮影のみ行い、その分のお金を旅行や将来のために充てる、いわゆる「ナシ婚」も増えていますから、こうした価値観が生まれるのは当然と言えば当然かもしれません。

 しかしながら、この意見に賛同しかねる、という反対の声も多数。結婚式を行う事や参列することは損得を超えたものであるという認識を持つ方も多くおり、両者が真っ向から対立する図式となっています。

■ どう考えるかは自由……だが、あまりに寂しい

 自分の結婚式を行ったことがあり、もちろん友人や親族の式に参列したことのある筆者としては、この主張に寂しさを感じてしまいました。むしろ、お世話になった方だからこそ招待するべきだと考えますし、もし自分が呼ばれたら出来るだけ参加するようにしています。

 まず結婚式を挙げる側として、たとえ数年間連絡を取っておらず、疎遠になっていたとしても、どうでもいいと思っている人には招待状は送りません。また、関係値によっては招待しないと逆に失礼になることや、不快にさせてしまうこともあり得ます。建前であろうが、来て欲しいと思っているからリストに名前が入るのです。

 そして、ご祝儀についても3万はあくまで一般的な額であって、そこに決まりはありません。「偶数はタブー」なんて言われていますが、大事なのは結婚を祝う気持ち。筆者の場合その点特に気にしませんでした。

■ そもそも出欠の決定権は招待された側にある

 一方、招待された側としては大前提として「式に参加するかしないかの決定権を持っているのは自分」である、ということ。招待状には必ず出欠確認がついています。

 もしかすると、気が進まない、それほど深い縁を感じない、というパターンもあるでしょう。そんな時はただ欠席に〇をして返信すればよいのです。

 筆者は相手が招待してくれた時点で、「この人とは良好な関係を築けていたんだな」とありがたみを感じるタイプでしたし、晴れの姿、生い立ち映像もむしろ見たい、全力で祝ってあげたい。結婚という一大イベントについては、打算なくこう考えていたのですが……どうやらそうでないパターンもある、ということを認識せざるを得ないようです。

 「これも価値観」「これも多様性」という言葉で片付けるのは簡単ではありますが……。もし「気が引ける」だけを理由に、本音では結婚式をしたいのに控えてしまう、というのは勿体ないと感じます。結婚式は一生のうちそう何度もできません。繰り返しますが、出欠決定権をもつのは「招待された側」です。とはいえ、それでも「やはり」となってしまう人がいるのは事実。

 「お世話になった人を結婚式に呼ぶのは理解できない」……あなたはどう感じますか?

(山口弘剛)