【ミリタリーへの招待】東日本大震災に派遣された自衛隊員の声未曾有の災害となった東日本大震災から1年。自衛隊は過去最大の動員体制で災害派遣を行い、警察・消防・海上保安庁や、米軍をはじめとした各国の災害援助隊などとともに、被災地での活動を行いました。その様子は様々に報道されましたが、ここでは実際に災害派遣された自衛隊員から聞き取った、報道では取り上げられなかった細かな話をいくつか書いておこうと思います。


最初に断っておきますが、お話を聞けたのは一部の隊員にとどまっており、全てを網羅したものではありません。単に「聞いた範囲ではこういうことがあった」というものです。そして、特定の人名は、本人が不利益を被る場合があるので、あえて出さないようにしていますのでお許しください。

まずは航空自衛隊。中越地震や岩手・宮城内陸地震などで、ガレキに埋もれた被災者の救助に活躍した、ファイバースコープなどの装備を持って被災地に入りました。ところが。

災害救助用簡易画像探査機

「何もないんですよ。ガレキも何も全部海に持って行かれて、まっさらの更地みたいになってて。現地の情報がほとんど入ってこないままに派遣されたのもあるんですけど、あまりの光景に『何をしたらいいんだろう』って呆然としました」

持って行った倒壊家屋用の捜索装備は、結局使える場面があまりなかったそうですが、それでも行方不明者の捜索など、様々な活動をしたそうです。

航空自衛隊の新しい災害派遣セット

また、航空自衛隊では新しい災害派遣セットに更新が始まっていました。様々な装備品が新しくなっていますが、簡単に見分けるポイントは、今までは青いリュックだったのが、新しいものではオリーブドラブになっているというところ。ただ、今回の災害派遣では使用されませんでした。まだまだ現場では青い装備が一般的で、そこに別の色の新装備を着用した隊員が混じると、遠くから見ても「あれは航空自衛隊」という判別がしにくくなるから……というのが理由だったようです。更新が進むと、青いリュックで災害派遣される航空自衛隊員の姿は見られなくなることでしょう。

人数的にも災害派遣の主力となったのは陸上自衛隊です。行方不明者の捜索をはじめ、避難所などでの給食支援では、装備品の「野外炊具1号」などが活躍しました。

陸上自衛隊の「野外炊具1号」

寒い中、野外炊具で作られた暖かい食事は、被災者にも好評だったようです。この給食支援のメニューにも工夫がありました。暖房も少なく寒いので、暖まるカレーやシチューなどは喜ばれるのですが、しょっちゅう作る訳にはいきませんでした。

「カレーやシチューはトロミがあって粘性が高いので、好評なんですが片付けの際、洗うのに手間がかかるんです。水を多く使ってしまうんですよ」

現地では水が貴重です。洗う際にその水を多く使ってしまうメニューは避けざるを得ず、後片付けが比較的簡単なメニューが主力になりました。野外炊具は基本的には鍋なので、多くの人に提供しやすいというのもあって、煮込み系が多くなります。その中では豚汁が評判が良かったそうです。また、カレーを全く作らなかった訳ではありませんでした。

「避難所で暮らしていると、どうしても閉鎖された空間でやることも少ないので、日付や曜日の感覚が薄れてきてしまうんですよ。そうなると通常の生活に戻った際も支障が出てしまうので、定期的にカレーを作ってなるべく生活のリズムを保てるように心がけていました」

ずっと海の上にいて曜日の感覚が薄れてくる艦隊勤務の為に、海上自衛隊では毎週金曜日にカレーを食べる「金曜カレー」という文化がありますが、この考え方を応用して、避難所の給食支援でも定期的にカレーを作り、被災者の生活感覚を維持していたのですね。

また、野外炊具はひとつの釜に上下に内釜をセットすることにより、最大100名分(通常は80名分)のごはんを一度に炊くことができますが、構造上、上の段は固め、下の段は柔らかめに炊けてしまいます。ですからタイミングよく火を止めて蒸らした後、上下の釜で炊いたごはんをきれいに混ぜ合わせることが「腕の見せどころ」なんだそうですよ。

海上での行方不明者の捜索、そして大規模な物資輸送は海上自衛隊が主力になりました。三陸沖に派遣された護衛艦の航海士の方によると、津波で流され海底に沈んだガレキにより、沿岸での海図は役に立たなかったそうです。こういう際には艦底部に装備されたアクティブソナーを使用することにより、海底の状態を探ったりすることができるのですが、今回は基本的に使用しなかったそうです。

「だって使っても、水深警報(座礁の危険を知らせる)鳴りっぱなしになるのが予想できますからね。手の届くところに行方不明者がいるかもしれないのに『警報がでたので近づけず、助けられませんでした』とは言えないですよ。ギリギリまで近づけました」

実際に海底のガレキにより、艦底をこすってしまった艦も何隻かあったようです。

海上自衛隊最大のヘリコプター搭載護衛艦「ひゅうが」

海上自衛隊最大で、当時女性が乗艦する唯一の護衛艦だったヘリコプター搭載護衛艦「ひゅうが」(2番艦「いせ」は震災後の3月16日就役で災害派遣に間に合わなかった)。物資の輸送や持ち前の高いヘリコプター運用能力の高さを活かして、海上のヘリ基地として、主に気仙沼や石巻沖で活動しました。その際、当初予定になかった入浴支援にかり出されたことがあったそうです。

仮設浴槽

最初は輸送艦「くにさき」が艦内に仮設浴槽を設置して入浴支援をしていたそうなんですが、ボイラー出力の関係か、途中でお湯がぬるくなってしまい、このままではせっかく入浴したのに湯冷めしてしまう……ということで、お呼びがかかったようです。「ひゅうが」は前述のように、女性自衛官が乗務する唯一の護衛艦だった為に、浴室も男湯と女湯があり、通常の男女別入浴が可能になったりトイレもはじめから男女別になっていたりと、被災者の好評を博したそうです。現在の「ひゅうが」艦長は震災時に輸送艦「おおすみ」艦長を務めており、仙台や石巻などで支援物資の陸揚げを担当したりしていたと話してくれました。

護衛艦に較べて小型で、喫水(海面から船底までの深さ)も浅い掃海艇は、更に岸に近いところまで進出し、行方不明者の捜索に当たりました。機雷を捜索し、除去するという通常の任務と、多少似通った点があったようですね。海面をグリッドに分けて、その部分をしらみつぶしに捜索して、次の場所に移る……という手法だったそうです。

「ただ、一度見て発見できなかったからそれで終わり、じゃないんです。海面や海中にあるガレキに引っかかって、海中に没している行方不明者が、何かのきっかけで浮かび上がってくることがありますから。海面監視は何度も何度も繰り返して、海面に変わったところはないか、誰か浮かんでないか、ずっと神経を張りつめてました」

機雷の水中処理を担当する水中処分員はゴムボートに乗り、潜って海中のガレキの中に閉じ込められた行方不明者を捜索しました。

「視界は目の前10センチほど。ほとんど見えないので、手探りで進みました。ガレキや、流された家の部材から釘が飛び出したりしていて、怪我することもあるんですが、伸ばした手の先に誰かいるんじゃないか、布のような感触があったら、引き寄せて確かめていました」

ゴムボートに引き上げた行方不明者は、いったん母艦である掃海艇に引き上げ、一定の人数が集まると寄港して搬送してもらう……という感じで進めていたとか。

そんな掃海隊の隊員の奥様によると、派遣から帰ってきた際、今まで見たことのないほどやつれていたそうで、任務の過酷さに驚いたそうです。その内容については「しんどかった」という言葉だけで、具体的な話は一切しなかったそうです。話すということは、つらい記憶を思い出すことに繋がるんで、話したくなかったのかもしれませんね。災害派遣後、精神的な不調を訴える自衛隊員が増えたとの話もありますし、被災者だけでなく、支援に当たった人々も大きな精神的打撃を受けたことは、忘れてはいけないことでしょう。

震災から1年経ちましたが、被災地の復興はまだこれからです。周りを見ても、ようやく最近になって「災害復旧工事」の看板が見られるようになり、端緒についたばかり、という印象ですね。道のりはまだ長いのですが、あの時、多くの人を救う為に、今回ご紹介したような多くの無名の人々が活動していたことを改めて書き記しておきます。

自衛隊に寄せられた声

(文・写真:咲村珠樹)