関西中心に東名阪で活動するヴィジュアル系バンド『HOLYCLOCK』ボーカルの龍太朗が今年(2016年)1月、自身のブログにこんな記事をアップした。
「母を探しています。」
当時このブログは話題となり、ネットで大拡散された。編集部でも当時、龍太朗にインタビューをして紹介したが、読者からは「その後」を知りたいという声が継続的に多数よせられていた。
そこで本稿では生き別れの母親を探していた『HOLYCLOCK』龍太朗と母との再会までの全てを報告する。
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■母と別れてからは「生きる」のに精一杯
龍太朗は4歳の時に父母の離婚で母と生き別れた。その後の運命は過酷の一言。父からの言葉や力での虐待、さらには酒におぼれた父が目の前で自殺を図った事もあった。自殺は未遂に終わったが、その後迎え入れた継母からも虐待を受け、継母と父が離婚して父方の祖母の家に身を寄せるまでは、着る物から食べる物にまで事欠く日々だったという。
母と別れてからの龍太朗は「ただ生きる」だけで精一杯だった。しかし、祖母の家に身を寄せてからは少しずつ自分の気持ちに余裕が出てきた。時たま母の事は思い出すけど、もう会えない現実。そんな時「音楽」との出会いが彼の心を救った。
打ち込める「音楽」と出会い数年。ただがむしゃらに走り続ける中で、心を許せる仲間ができ、支えてくれる人たちにも巡り会えた。そして念願のCDデビュー。ヴィジュアル系バンド『HOLYCLOCK』の龍太朗としてステージに立っていた。
そんなある日、CDデビューと同じく念願だった「ワンマンライブ」が決定した。日付は自分の誕生日である4月10日の翌日。同時に思い出されたのが、「母」の事だった。彼はいつの頃からか誕生日を迎える度に、「母に謝りたい」と思うようになっていた。
父母が離婚する時、突然両親から「どっちについていく?」と聞かれた。いたずら盛りでお母さんによく怒られていた龍太朗は、思わず「お父さん」と答えてしまった。彼はその時の事をずっと悔やんでいた。大人になり繰り返しよぎるのが「母を追い出した決定打は俺の選択なんだ」という強い後悔。そして「自分が救われたいだけなのかもしれないけど、一言母に謝りたい。」という思い。
そこで誕生日翌日の4月11日のライブに母を招待したいと考えた。しかし連絡先は分からない。戸籍をたどろうとも思ったが、「母に新しい家庭があったなら」「向こうは迷惑かも」そんな遠慮もよぎり、ネットの力に思いを託して母の意思で名乗り出てくれる事に望みをかけた。
■それでも「母に一目会いたい」
そして訪れた4月11日。お母さんがライブ会場に現れることはなかった。
前回記事のインタビューの中で龍太朗は記者からの「もしこれで会えなかったらどうしますか?」という問いに、「それでも母に一目会いたい」と答えていた。4月11日に再会できずしばらく落ち込みはしたけれど、ここでも「やはり会いたい」と強く思ったという。そこで再び探し始めようとしていた矢先の出来事。
その日は、東京でのライブを終え、関西の自宅に戻った翌日。久方ぶりの一日オフだったが普段なら家で過ごすところ、オフの日には珍しく『HOLYCLOCK』のメンバーで集まる事になっていた。集合場所にたどり着き挨拶を交わす龍太朗。みんなで雑談混じりで話していると、一本の電話が入った。
「おばあちゃんだけど今いい?」
かかってきたのは父方の祖母。龍太朗の“育ての母”でもある。祖母からの電話を受け話を聞いていると、龍太朗の事を母が探しており、しかもこれから祖母のもとまで会いに来るという。ネットで話題になった事は全く知らなかったらしく、母は母で探していたそうだ。
「こういう事情なんだけど、龍太朗の番号教えてもいい?」
あまりの突然の出来事にどうしていいか分からず龍太朗は言葉を失った。しかし、異変を察したメンバーらが強引に話を聞き出し「番号どころか今行かなきゃ駄目だ」と強く背中を押し、待ち合わせ場所まで連れて行ってくれた。
メンバーに見送られ入った喫茶店。その席には母らしき女性と付き添いらしい女性が座っていた。
■一気に動き出した再会までの道
同席していた女性は、それまで存在すら知らなかった「妹」だった。初めて会うにもかかわらず妹は「お母さんがずっと持ってた写真で知ってた」「会いたかった」と涙ながらに話してくれた。
後のインタビューで龍太朗は「妹が突然できて、しかも姪っ子までいました」と笑いながら話してくれた。どうやら嬉しい反面、まさかの妹の出現。しかも「お兄ちゃん」と呼ばれた事がかなり照れくさかったらしい。
そして今回再会につながったのは、母方の祖母。龍太朗の記憶にぼんやり残る「やさしいおばあちゃん」の言葉がきっかけだった。
母方の祖母は体調をくずししばらく前から入院していた。状況は芳しくなく、ついに医師から余命一ヶ月を宣告された。日に日に曖昧になって行く祖母の意識。今日の事も昨日の事も分からない状態。しかしそんな中、突然こんな事を言い出した。
「龍太朗 龍太朗」
それを聞いた母は、それまで我慢していた龍太朗に会いたいという気持ちがおさえきれなくなった。離婚で置いて来た息子。別れてからずっとずっと、再婚しても何があっても決して忘れる事はなかった。後悔ばかりしていた。そんな中での余命幾ばくもない自分にとっては母からの言葉。龍太朗に対する思いが一気にあふれ出した。
「今は何しているだろうか」
「病気になっていないか」
「もしそうなら私が面倒をみたい、今度こそ支えたい」
母も龍太朗の事は決して忘れてはいなかった。ただこれまで会わなかったのは長すぎる時間と、息子を思っての躊躇いから。余命わずかな自分の母の言葉がその全てを取り払った。
ただ長すぎる年月の間に龍太朗との連絡先は失われていた。でも迫り来る自分の母の命の期限。戸籍をたどろう、興信所に頼もうとしていたところ、元夫の親戚が店をやっているのを思い出した。
わずかな記憶を頼りにそのお店を探し当てたところ、お店は健在、しかも元夫の母(龍太朗の父方の祖母で育ての母)とは年賀状のやりとりが今でもあるという。そこで詳しい事情を説明し、連絡をつけてもらったところ、元夫の母は「会ってもかまわない」と。ここからオフの日の龍太朗の出来事につながる。
■再会の後の切ない別れ
「妹が母と私の間に入り奮闘してくれてます」
母と再会した龍太朗はすぐ記者にも連絡をくれた。母に会えた事、妹がいてさらに姪ができておりいつの間にか「おじさん」にもなっていた事。妹からLINEが届く事、そして上記の通り、まだぎくしゃくしてしまう母との間に妹が入って奮闘してくれている事など楽しげに語ってくれた。普段の龍太朗は、自分の感情を押し殺したようなところがある。でもお母さんとの再会でそれまで隠れていた一面が一気に飛び出してきたような雰囲気だった。
この変化を嬉しく思いつつ、数日中には再会のきっかけとなった母方の祖母に会いに行くというので「詳しい話はとりあえず来週に」とその日の話は終了。
ところがその直後に、龍太朗は高熱を出してしまった。元々風邪気味だったというが、このところよく動いていた事で疲れとともに風邪が一気に悪化。肺炎となり10日間も入院する羽目になった。
「祖母には会えませんでした」
退院からしばらくして記者は龍太朗と話をしていた。龍太朗によると、母との再会のわずか3日後に高熱を出し、祖母と会う約束だった10月3日に入院。もちろん、母と妹がすぐに飛んできて見舞ってくれたが、すぐ会えると思っていた祖母はその日の晩に龍太朗の顔を見ることなく静かに息を引き取ったという。
名前を呼び続けてくれた祖母には結局会えずじまいとなってしまったが、医師の許可を得て葬儀に何とか参列する事ができ、棺に入った祖母とは再会する事ができたそうだ。……が、そこに待ち受けていたのは、棺に入った祖母だけでなく沢山の親戚達。皆一様に龍太朗の帰りを喜び、中には龍太朗を見て涙ぐむ人まで。
「今は親戚の顔と名前を覚えるのに必死です」
一気に沢山の人に会い、そして自分は覚えてないものの相手は覚えてくれていたりで名前と顔、そして記憶が一致せず今は少々「嬉しい悲鳴」をあげているという。
■もどかしすぎる……
その後の親子関係についてはまだ「ぎくしゃく」しているとの事で、入院中何度か見舞ってくれたり、電話のやりとりもあったりするが、どーしてもまだ「お母さん」と呼べないらしい。
記者との会話の中では何度も「母」「お母さん」と呼ぶのに、本人を目の前にすると名前で“さん”付けになり、敬語にもなるのだとか。
「照れたり緊張するんですか?」
「……はい」
ネットで母を探し始めた時にも、「もどかしい」と感じていたけど、まさかここまでとは。記者から見た龍太朗は、冷静でしっかりした人物。しかし母に関する事だけは、初恋の人を相手にするような「まわりくどい」「もどかしい」反応を見せることがある。
でもさすがに今回だけは「いつかはお母さんと呼べるようになりたい」と意気込んでおり、来年4月に予定するワンマンライブには、「今度こそお母さんに来て欲しい」。そう語っていたのがなんだかほほえましかった。
ちなみにこの頃で一番母に照れたのは「龍太朗のCD買ったよ」と言われた事らしい。さらに再会後に息子の活躍をネットで調べていたお母さんが、前回の編集部記事を目にしてこれまたすぐ連絡してきたという話でも照れていた。一つ言われて一つ喜び、ちょっとした事で照れ、嬉しい悩みを抱え。失われた時間を埋める事はできないが、今後は母であり最大のファンが龍太朗の活躍を全力で応援し新しい思い出を一緒に作ってくれる事だろう。
はたから見ていてまだまだ「もどかしさ」は沢山あるが、というかたまに話す記者レベルで「もどかしい」と感じているのだから、一緒にいるメンバーらは「よっぽどもどかしかった」んだと思う。
それを裏付けるように龍太朗は「あの電話の時、一人だったら会いに行っていたか分からない。強く背中を押してくれたメンバーには本当に感謝しています」と語っており、再会の最大の功労者は『HOLYCLOCK』のメンバー、琢弥、薫、やひろだと教えてくれたのが、これまた最後の最後までほほえましかった。
そんな彼らは今年から来年にかけ東京、大阪、名古屋と各地でのライブが既に複数決定している。大きいイベントだと2016年12月12日のOSAKA RUIDO HOLYCLOCK PRESENTS『闇に散らばる願いの欠片』と、母を招待したいと意気込む2017年4月20日のOSAKA RUIDO HOLYCLOCK ONE MAN 『憧憬と憐憫の流星群』。
そして、今年6月にはミニアルバム『心象アクアリウム-終焉の輪に残留する砂時計-』をリリースしており、こちらは絶賛発売中。全国CDショップやAmazonでも販売されているので、ヴィジュアル系に覚えのある方、ライブに行けるお近くの方はぜひ彼らの活躍、応援してあげてほしい。
▼協力
HOLYCLOCK
(取材:宮崎美和子)