豊臣秀吉が、その最晩年の1598年に催した宴「醍醐の花見」の舞台となった、京都の醍醐寺三宝院。国宝の表書院をはじめ、重要文化財の建物と、秀吉みずから基本設計したとされる国指定特別名勝・特別史跡に指定されている庭園のジオラマがTwitterにて発表され、その精巧な出来栄えが反響を呼んでいます。

 醍醐寺の三宝院(さんぼういん)は平安時代末の1115年、左大臣・源俊房の子で醍醐寺14代座主の勝覚が灌頂院(かんじょういん)として開いた醍醐寺の塔頭。朝廷や鎌倉幕府、室町幕府との関係が深く、応仁の乱で焼失したものの、豊臣秀吉の天下統一後に醍醐寺80代座主・義演によって再興されました。

 その庭園は「醍醐の花見」に際し、秀吉がみずから基礎設計を行ったもの。1598年、醍醐の花見終了後に作庭が始まり、小堀遠州の門人で「石組の名手」と称された賢庭などが参加して秀吉没後も作庭は続けられ、1624年に完成しました。

 1952年には安土桃山時代の華やかさを伝える庭園として、国の特別史跡および特別名勝に指定された醍醐寺三宝院庭園。特別史跡かつ特別名勝に指定された庭園は全国に8つしかなく、京都ではほかに天龍寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)のみとなっています。

 この三宝院のジオラマを作ったのは、Twitterユーザーの宗秀斎さん。「古(いにしえ)から日本人の心にある古の情景美を小さな空間に凝縮することで、まるでそこにいるかのような心のオアシスになれば」と、現存する歴史的建造物や失われた室町・戦国時代の武家屋敷など、古の風景をジオラマで再現して発表されています。

 宗秀斎さんがジオラマで再現したのは庭園のほか、醍醐の花見に際して奈良から移築された能の楽屋を現在地に移転したという表書院(国宝)、醍醐の花見で豊臣秀吉が槍山で花見をした建物を移築した純浄観に、勅使の間(いずれも重要文化財)、そして唐門(国宝)と築地塀です。

醍醐寺三宝院(宗秀斎さん提供)

 ジオラマ作りにあたっては、実際に現地へ赴き100枚以上の写真を撮影。また、庭園や建物の配置に関しては実測図を参考にしたとのこと。建物は立面図がなかったので、実測図から割出して作成したと宗秀斎さんは語ってくれました。

庭園より唐門をのぞむ(宗秀斎さん提供)

 1ミリの角材を駆使し、軒下の垂木も精密に再現した表書院(大方丈)。柱の釘隠しや、屋根の反り具合などにも神経が行き届いています。

垂木を角材で表現(宗秀斎さん提供)

 純浄観は表書院より一段高く、庭園をより立体的に鑑賞できる建物。大きな特徴である、たっぷりした茅葺き屋根の質感もうまく表現されています。

表書院より一段高い場所にある純浄観(宗秀斎さん提供)

 国宝の唐門は2010年7月に1年半の歳月をかけ、創建当時の壮麗な姿へと復元されました。黒い漆塗りの門扉に、金箔で装飾された紋が映えるたたずまいを再現。

国宝の唐門(宗秀斎さん提供)

 そしてなんといっても、このジオラマの見所は庭園です。石は実測図をもとに、ひとつひとつが正確な位置に配置されています。

実測図をもとに石を配置(宗秀斎さん提供)

 庭園の主役は、醍醐の花見に際して聚楽第から移された「藤戸石」。現在の岡山県倉敷市で行われた源平の「藤戸の戦い」で重要な役割を果たし、平家物語や謡曲「藤戸」に取り上げられた名石で、室町幕府3代将軍足利義満が北山殿(鹿苑寺金閣)へと移した後、8代将軍足利義政の東山殿(慈照寺銀閣)、細川家の屋敷を経て織田信長が15代将軍足利義昭の居城となる二条御所(二条城)を作る際、その庭園へ移設されました。

 信長没後、天下人になった豊臣秀吉によって二条城から聚楽第へ移された藤戸石。その来歴から「天下人の所有する石」として知られています。この醍醐寺三宝院庭園では、両側に脇侍石を配した三尊石の手法で池のほとりに。

三尊石の手法で配された藤戸石(宗秀斎さん提供)

 また、池に浮かぶ亀島、鶴島には、実際と同じように五葉松が植えられています。2か所ある苔むした土橋も風情があります。池の奥には、豊臣秀吉を祀る豊国大明神の祠も木々の間から覗いていますね。

表書院方向から見た庭園(宗秀斎さん提供)

 今回のモチーフである醍醐寺三宝院について、宗秀斎さんは「豊臣秀吉というキーワードから、ストーリー性のある寺院として歴史ファンの方にも興味を持っていただけるのではないかと思います」と思いを語ってくれました。

池から見た表書院(宗秀斎さん提供)

 桜で有名な醍醐寺三宝院庭園ですが、秋の紅葉もなかなかのもの。見どころ豊かな庭園と建物の魅力を、このジオラマは伝えてくれています。

<記事化協力>
宗秀斎さん(@sousyuusai_ar)

(咲村珠樹)