ドラマやアニメなどで描かれる昭和の一般的な母親像というと、家族に対して愛にあふれ、「辛い」なんて愚痴もこぼさない印象があります。しかも、身だしなみはいつもキッチリ。しかし、時代が進んだ現代、核家族化にワンオペ育児では愚痴をこぼさないなんて困難。そんなつぶやきが共感を呼んでいます。
「思い出の中の母はどんなに大変な時でも『辛い』『疲れた』などとは言いませんでした」みたいな話、耳触りは大変よろしいかもしれませんけどまじしゃらくさいので私は疲れた辛いと言います。なぜなら家族は母親の労力の搾取に無頓着すぎるからです」
続くツイートで、「これは我が家の私の話なので母(私)といってますけど、とにかく『周囲が誰かの労力の搾取に気付いてないこと』『搾取されてるものが耐え続けること』をやめていこうねって話です」と注釈をつけています。
そうツイッターに投稿している、ネットユーザーのるる子さん。正直なところ、このツイートを目にして筆者はハッとしました。筆者の母は子どもを叱ることはあれど、疲れたという言葉を発したり、愚痴をこぼしているところを子どもに見せてこなかった人。パートをしながら家事もきちんとやり、3人の子どもを育て上げた今は、同居している孫育てへ。
一方私は……結婚して2人の子どもをもうけるも離婚。家事に仕事にめまぐるしい日々をすごし、子どもたちには、同じ目線で喧嘩したり、泣き言を言ったり、疲れたという言葉も。親離れする前の思い出の中の母親と私、比べる環境も何もかも違えど、私の心の中のどこかに「こんな母親、失格だよね」という気持ちが付いて回っていたのです。
このためるる子さんが言う、「しゃらくさいので私は疲れた辛いと言います」という言葉に救われた気持ちになってしまいました。
「辛い」「疲れた」という言葉……。言わないことが美徳的空気を令和の今でも感じることがあります。特に子どもに対しては。しかし、声を上げなければ自分の身を守ることができません。言わなければ誰も家事をやらない。母である私が這ってでもやらないといけない……こんな状態で消耗を続けていれば、いずれ何かあった時に子どもを守る一番重要な働きができなくなります。正直、それはすごく怖い。自分の身を守ることができるからこそ、他の人の身も守れるのだと思うのです。
今では子ども達は中学生になり、自分のことをはじめ家のことでもできることが増えてきたため、遠慮なく「夕飯作って」「洗濯物干してくれる?」と頼めるようになりました。「母は働いて稼ぐ係」「子はやれることはやる」という感じに定着していますが、それでも「辛い」「疲れた」という時には、そのまま伝えるようにしています。
これは家族以外にも言えると思います。職場でも、頼まれたことは何でも引き受けてしまい無理を重ねて、心身を壊す人がいかに多いか。辛いなら辛いと、はっきり言葉にだして言わない限り、相手の状況を考えずに仕事を押しつけてしまう人は珍しくありません。
家庭にしても、職場にしても、自分の状態を臆せず言うことができる。不調の人がいれば家なら家族、職場ならチームでカバーする。そんな風潮を作っていくことがこれからの時代、大切なことなのではないでしょうか。
「思い出の中の母はどんなに大変な時でも『辛い』『疲れた』などとは言いませんでした」みたいな話、耳触りは大変よろしいかもしれませんけどまじしゃらくさいので私は疲れた辛いと言います。
なぜなら家族は母親の労力の搾取に無頓着すぎるからです。— るる子 (@bocchtsukare) November 19, 2019
<記事化協力>
るる子さん(@bocchtsukare)
(梓川みいな)