こんにちは、咲村珠樹です。12月ですよ。芝居の世界では、京都の南座で恒例の顔見世興行が行われていて、もうじき千秋楽を迎えようとしています。京都で歌舞伎といえばこの南座ですが、東京で歌舞伎といえば、やはり歌舞伎座でしょう。
現在は2013(平成25)年春を目指して建て替え工事が行われており、かつての建物は失われてしまいましたが、今回は2010(平成22)年まで存在していた、そのかつての建物を改めてご紹介しようと思います。
東京の銀座四丁目。俗に「東銀座」と呼ばれるこの辺りのランドマークとなっていた歌舞伎座。最寄り駅は地下鉄日比谷線東銀座駅です。もっとも、かつてこの辺りは「木挽町」と言っていました。江戸時代に製材業者(木挽き職人)たちが住んでいた町だから……というのが由来です。その木挽町の呼称、歌舞伎座正面に備えられた太鼓やぐらに染め抜かれた文句「木挽町きやうげんづくし(狂言づくし)歌舞伎座」で、旧町名を今に伝えていました。おそらく建て替えられた後も、きっとこの「木挽町」の文句は継承されるんでしょうね。
さて、この立て替え前の歌舞伎座、一応1951(昭和26)年築の「四代目」ということになっていました。「一応」と断ったのには理由があります。実はこれ、完全な新築建て替えではなく、空襲で破壊された1924(大正13)年12月落成の三代目建物を「戦災復興」した……という形になっているからなのです。いわば現在「復原」工事中の東京駅丸の内本屋にも似た感じなんですね。はじめから設計し直したものではないので、厳密に言うなら「三代目半」といったところでしょうか。
という訳で、この建物を語るには、まず1924年築の三代目に触れるところから始めることにしましょう。
洋風の外観を持つ1889(明治22)年に建てられた初代歌舞伎座(中味は和風だったそうです。当時の流行に外観だけでも追随したんでしょうか)を、1911(明治44)年に和風の宮殿を思わせる外観にした二代目が1921(大正10)年に漏電による火災で焼失した後、1924年に再建(翌1925年開場)されたのが三代目歌舞伎座です。実は建設途中で関東大震災に見舞われ、舞台に使うヒノキ材(文字通りヒノキ舞台)に引火して内部が焼けてしまうという災難を乗り越えての完成でした。設計したのは、当時東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)教授だった岡田信一郎。先代の建物が失火(漏電が原因)により焼失したのをふまえて、鉄筋コンクリートの耐火耐震建築となりました。
外観は奈良時代風の真壁造り(壁から構造材の柱を半分露出させた造り。西洋建築のハーフティンバーも同様の構造)を思わせるデザインを基礎に、華やかな桃山式の装飾が施された豪華なもの。大正末から昭和初期にかけては、結構和風で豪華な感じを出す為に、この桃山風の装飾が多く用いられました。他の例では、鉄道博物館に保存されている1930(昭和5)年製造の一等展望車マイテ39 11も(だいぶ技術的に修復不能な部分があり、完全修復はなされていませんが)内装が桃山式になっています。豪華で、しかも海外の人が感じる「日本らしさ」みたいなものを意識したデザインだったのかもしれません。
この岡田信一郎設計の歌舞伎座が、1945(昭和20)年5月25日の大空襲で被害を受けてしまいます。耐震耐火建築といえど焼夷弾の威力は凄まじく、同日に被害を被った東京駅丸の内本屋同様、外郭の躯体を残して全焼しました。全建物や設備に対し、被害は劇場部分が約80%、楽屋部分が約50%に及んだといいます。しかし幸いというか、基礎や壁、屋根の一部や付属する建物が被害を免れた為、既存の構造を利用して「修復」設計することで再建することになったのでした。
再建するにあたっての設計者として白羽の矢が立ったのは、東京芸術大学教授(当時)の吉田五十八。この他、舞台設備関係の設計者として木村武一が指名されました。吉田は東京美術学校図案科において、岡田信一郎のもとで学んだ人物。恩師が設計した建物のデザインを活かし、なるべく建設当時の華やかな姿に戻そうと設計にはかなり苦心したと、吉田は後に述懐しています。実際、設計に1年あまり(建設に要したのとほぼ同じ期間)を要しています。施工は清水建設で、戦後の物資欠乏の中、建築材料の割当(配給制に近い状態だったようです)を申請しつつの工事でした。
建物正面は焼け残っていたので、そのまま再活用しています。玄関付近は白漆喰塗りのような雰囲気の白壁。劇場入り口の唐破風の部分なんかも、金色の装飾や彫刻など、非常に細かい意匠が凝らされていました。
正面以外の外壁はタイル張りになっており、窓などはちょっと中国っぽい意匠も見られて、この辺りは昭和初期に建てられた目黒雅叙園の百段階段にも通じる、当時の「和風で豪華」な建物デザインの傾向を見ることができました。
玄関を入ったホールは吹き抜けになっており、芝居見物という「非日常の空間」を演出する為に、柱は濃朱、壁面はつづれ織りの錦、そして天井全体に間接照明が施され、柔らかな光が床に敷かれた緋色のじゅうたんに注いでいました。この辺りは正面外観との調和を図る為に、近代的ながらも日本古来の寺院内部を思わせるような伝統的な感じにしたようです。
ただ、劇場部分(観客席と舞台)は損傷が激しかった為、だいぶ吉田の独自性が見られていました。戦災を被る前は屋根が切妻になっていて、正面から見ると屋根の妻面が並んで三つの山のようになっていたのですが、吉田はこれを平屋根にしました。これにより、先代より少々重厚感が薄れて現代的な姿に変化しています。
そして劇場内部は火災や経年変化(築25年)の影響などで弱くなっている部分があるので、既存の柱を補強した関係で若干座席部分の柱が太くなってしまったりして、柱がある1階席後方では(旧劇場に較べて)見切りが悪くなってしまったとか。こればかりは戦前の姿を知らないので、なんとも言えませんね。使われている黒・柿・萌黄(緑)の定式幕は、江戸三座のひとつである森田座(守田勘弥が座元)のデザインを受け継いだもの。「平成中村座」など、中村勘三郎さんが座頭を務める公演では、中村座(江戸三座のうち、中村勘三郎が座元だった芝居小屋)の伝統にのっとり黒・白・柿というデザインの定式幕を使います。
また、近代的な劇場設備にする為に、PAなどの音響設備、そして将来のテレビ放送を見越して照明の容量もはじめから大きくしていたそうです。音響のスピーカーなどは露出していると興ざめなので舞台上の欄間部分に内蔵し、その部分を西陣織の特殊な織物を貼ってカバーし、観客の目に触れないような工夫がなされていました。実際、観劇していてもまるで俳優の肉声が届いているかのような感じで、スピーカーからの音声が足されているようには思いませんでしたね。
そして、元々劇場(芝居小屋)では昔から寺社仏閣や宮殿に使われているのと同じ、一番格の高い格天井(井桁でマス目を区切った形の天井)が用いられてきましたが、この修復工事では格天井ではなく吹寄竿縁天井とされました。竿縁天井というのは一般家庭でも使われますが、茶室などの数寄屋建築に特徴的に用いられる天井の形式です。近代数寄屋建築を多く手がけ、その第一人者となった吉田五十八の個性が最も表れたのが、この天井のデザインかもしれません。
もっとも、この竿縁天井には別の意味もありました。天井を支える構造材が縦横に走る格天井に対し、竿縁天井は一方向にしか構造材が並びません。この構造を活かして、構造材(竿縁)を舞台から観客席後方に向かって伸びるように配置し、天井の材料を舞台と同じ尾州(愛知県産)ヒノキの通し天井としました。天井に反響した音が格天井だと構造材に邪魔されてしまうところ、竿縁天井ではそのままストレートに観客席後方に届くので、音響効果が向上しました。そして竿縁の間に間接照明と冷暖房(空気清浄機も装備)のダクトを隠すことで、劇場内部の美観を損ねることなく、観劇の快適性を向上させることに成功しています。観客が舞台以外の部分を意識することのないよう、無粋になりがちな各種装置はうまく目に触れないような工夫がなされていたのでした。
その優れた建築デザインにより、この歌舞伎座は登録有形文化財になっていました。なのに何で壊されたのか……というのは色々事情があります。
文化財登録制度というのは、重要文化財に指定するにはまだ時期尚早だけど、社会的評価を受ける間もなく消えてしまうと困るので「貴重な文化遺産である」ことを表し、保護をしておくものです。いわば「重要文化財候補リスト」といったようなもので、主に建造物に対して用いられています。ただ、改築や補修に際して厳しい基準と文化庁の許可が必要となる重要文化財と違って、届出制で文化庁は指導.助言・勧告を基本とする「緩やかな保護」となっているのが特徴。なのである程度の外観を損ねない改装や、維持が難しくなった場合取り壊すこともやむなし……という面があります。
歌舞伎座の場合、現役の劇場としては地上5階・地下1階でありながら、観客らの移動は全て階段という弱点(特に咲村がよく利用した、最上階の一幕見席に向かう階段は非常に急でした)を抱えており、高齢者の多い観客層を考えると良くなかったのが主要因でした。元の構造が大正時代の建物ですから、エレベータやエスカレータを取り付けるのも困難で、抜本的にバリアフリー化を図るには建て替えざるをえないという結論に達したようです。あの雰囲気は好きでしたが、興行をうつ側としたら、これはやむを得ない決断だったでしょうね。
今や思い出の建物となってしまいましたが、2013年に完成する新しい歌舞伎座(大阪に「新歌舞伎座」があるのでややこしいですが)が、かつての歌舞伎座のように細部までよく配慮された、素晴らしい劇場になってくれることを今は祈っています。ただ、ビルだから外観はちょっと変な雰囲気になるかもしれませんが……。
(文・写真:咲村珠樹)