東京・お茶の水の神田川に架かる「お茶の水橋」。2018年から歩道を拡幅し、舗装をし直すなどの補修補強工事が進められていますが、その過程で明治~戦時中に走っていた路面電車の線路が現れ、ネットで話題となっています。この線路の由来を含めてご紹介します。
東京を走るJR中央線の御茶ノ水駅は、神田川の谷(江戸時代に掘削された人工のもの)に沿ってホームが設けられており、上流側のお茶の水橋、下流川の聖橋に挟まれた立地。現在は1932(昭和7)年に作られた駅の大規模改良工事が、2025(令和7)年3月までの予定で進められています。
これに合わせて、御茶ノ水駅を挟む形で架かる聖橋と、お茶の水橋の補修補強工事も進行中。お茶の水橋は、原龍太の設計で初代の橋(初めて日本人が設計した鉄橋)が東京石川島造船所(現:IHI)によって1891(明治24)年に完成しましたが、関東大震災で木製の床版(渡る部分)が焼失。現在の橋は東京市(当時)の小池啓吉と徳善義光が設計し、横河橋梁製作所(現:横河ブリッジ)によって1931(昭和6)年5月6日に架設・開通した2代目となります。
現在は塗装工事の足場に覆われて橋の形がはっきり見えなくなっていますが、鉄骨ラーメンゲルバー構造(側径間ヒンジ付きπ形ラーメンプレートガーダー)という日本では珍しい形式の橋です。お茶の水橋の補修補強工事は、橋本体の補修とともに歩行者の多い下流側(JR御茶ノ水駅寄り)の歩道を拡幅し、老朽化した車道の舗装をし直すのが主な内容。橋の構造は鉄骨ですが、床版部分は鉄筋コンクリートとなっています。
神田川の左岸、文京区湯島側で行われている車道の再舗装現場には、横断歩道部分に人だかりができています。みんなスマホやカメラを手に、道路の写真を撮影している様子。
何を撮っているかというと……橋の真ん中に突如現れた線路。老朽化した舗装を剥がしたところ、下から線路が出てきたのです。
アスファルト舗装に埋もれていたこの線路の正体は、というと……かつての都電(東京都電車)のもの。正確には1905(明治38)年に東京電気鉄道(旧川崎電気鉄道)が敷設した、通称「外濠線」の一部です。
東京電気鉄道は、山口県出身の岡田治衛武(現在の東横線となる武蔵電気鉄道創業者)らが設立した市街鉄道(路面電車)で、1904(明治37)年に土橋(現在のJR新橋駅近く)から皇居の外堀(現在の外堀通り)沿いに進み、神田錦町から明治大学の前を通って御茶ノ水橋(当時)までの路線を開業させました。終点の御茶ノ水橋停留所は、1904年12月31日に開業した甲武鉄道(現:JR中央線)御茶ノ水駅との乗り換えができるようになります。明治大学の近くには車庫も作られました。
翌1905年、路線は御茶ノ水橋(初代の橋は「お茶の水」ではなく、JRの駅名と同じ「御茶ノ水」と書いた)を渡り、当時の東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)の下、師範学校前停留所まで延長されます。この師範学校前停留所は、土橋から日比谷、赤坂、四ツ谷をぐるりと回って甲武鉄道の対岸を外堀と神田川沿いに進み、神田松住町(昌平橋の秋葉原側)までを結ぶ環状線の結節点となりました。
1906(明治39)年には、東京電気鉄道をはじめとする東京市内の市街鉄道を運営していた3社(ほかに東京電車鉄道、東京市街鉄道)が合併して東京鉄道となり、その後1911(明治44年)に東京市に買収されました。現在まで続く都電の誕生です。この間の1907(明治40)年、いったん御茶ノ水停留所は廃止されました。
1923(大正12)年9月の関東大震災で、初代の「御茶ノ水」橋は被災しました。橋が架け替えられるまで神田川を渡れなくなったので、師範学校までの区間は運休。代わりに再び現在のJR御茶ノ水駅前に御茶ノ水停留所が復活し、2代目「お茶の水」橋が1931(昭和6)年5月に完成すると、御茶ノ水停留所は橋を渡った先(旧「師範学校前」停留所)に移設されます。東京女子高等師範学校は関東大震災で校舎を焼失したために文京区大塚に移転、跡地には東京高等歯科医学校(現:東京医科歯科大学)が1930年に移転していたので、もう師範学校の前ではなくなっていたのでした。
その後1943(昭和18)年の都制施行で東京都電となったものの、翌1944(昭和19)年に戦況の悪化にともなう不要不急路線の整理により、お茶の水橋を含む錦町河岸〜御茶ノ水の区間は休止。御茶ノ水停留所は別路線の停留所として残りましたが、休止区間は戦後も復活することもなく、1949(昭和24)年に廃止されました。線路は再開を見込んでいたのか、金属供出の対象にはならず、正式な廃止を受けて自動車交通の妨げとならないよう、上からアスファルト舗装で埋められたのです。
今回、橋の再舗装にともない、期せずして日の目を見ることになった線路。まるでタイムカプセルで保存されていたかのように、廃止当時そのままの姿を現しました。道ゆく人も思わずマジマジと見てしまうほど。
お茶の水橋は複線区間だったので、現在露出しているのは片方の線路。JR中央線の方からお茶の水橋を渡った線路は、外堀沿いを走る線路と合流するため水道橋駅方向へゆるくカーブしています。この先には順天堂前停留所がありました。順天堂前から改称された順天堂病院前停留所と、手前の御茶の水(戦後に御茶ノ水から改称)停留所は、属していた都電13系統(新宿駅前〜水天宮前)の廃止にともない、1970(昭和45)年3月で廃止されています。
レールは路面電車(道路交通との併用区間)に特徴的な、頂部に車輪の脱線止め(フランジ)を受け止める溝がある「溝付きレール」。御影石でできた軌道敷もきれいに残されています。
道路表面のアスファルト層は3〜5cmほどの厚み。アスファルト舗装の平均寿命は約10年とされているので、これまでにも舗装工事は行われていたものの、この都電の線路跡はそのまま保存されて新たな舗装が上から施工されていたようです。
しかし、今回の補修補強工事では耐震性向上のため、線路の下にあるお茶の水橋の床版(コンクリート層)上部に至るまで舗装を剥がし、抜本的に工事が行われます。すでに線路跡にはカッターによる切れ目が入れられており、外堀通り側にあった一部のレールは切り刻まれ、撤去されてしまいました。
明治から100年以上になる、長い東京の歴史を物語る貴重な遺産であるお茶の水橋の都電線路跡は、今や風前の灯となっています。現在露出している部分は、すでに切り刻まれて廃棄される運命ですが、まだアスファルトに覆われている反対車線の下にも、同じ都電の線路が残されています。
この貴重な都電の線路跡をなんらかの形で後世に残せないかと、有志が「お茶の水橋都電レール保存会」を発足させ、調査活動を行っています。千代田区から学術研究を前提に提供されたレールを同会が調査した結果、発見されたレールは、現在のお茶の水橋が完成した1931年当時から使われているイギリス製のものであることが判明したといいます。
現在、お茶の水橋都電レール保存会では、工事の事業主体である千代田区の環境まちづくり部道路公園課維持担当係とともに、この遺構を保存する方法について検討を進めているとのこと。残念ながら現地であるがままの保存は、橋の耐震性向上を目的とする工事の性質上難しいようですが、なんらかの形で貴重な東京の記憶が残ることを願ってやみません。
※お茶の水橋の都電軌道遺構は工事現場であり、横断歩道上です。現地は24時間体制で安全確保の警備が行われており、見学に適した場所ではありません。通りがかる際には、工事や交通の妨げとならないよう、警備担当者の指示に従い、安全に留意してください。
(咲村珠樹)