千葉県市川市鬼高にある市川市文学プラザで、2011年10月8日(土)~2012年1月22日(日)にかけて「井上ひさし -東北への眼差し-」という特別展が開催されています。というのも井上氏は1967年~1987年にかけて市川市に住んでいたからです。
そして先日、「井上ひさしさんを語る」と題して、劇団テアトルエコーの俳優で演出家でもある熊倉一雄氏の講演会が催されました。
熊倉氏といえば、井上が山元護久と共に脚本を務めた日本放送協会の人形劇『ひょっこりひょうたん島』のトラヒゲ役の声優としても有名です。
以下は会場の様子。場内は撮影禁止なので、代わりに私による絵を掲載します。
※以下の「」は講演会における熊倉氏の発言の要旨です。敬称は略しました。
~井上ひさしとの初対面について~
「日本放送協会の子供番組に出演した時、歌うよう言ってきた構成の若い男が井上ひさし。井上はこの頃どんな番組でもよく歌を入れていた。」
~『ひょっこりひょうたん島』について~
「日本放送協会の人形劇の若いディレクター達は、今までのものをひっくり返して作ろうと意気込んでいた。そこで、「井上は面白いものを作るから依頼しよう。ただ井上は筆が遅いので山元護久と2人で書いてもらおう。」ということになった。
人形劇はそれまで、人形を操る人と声優が1箇所に集まって収録していた。この収録の仕方だとアドリブが可能だ。しかし帯番組である『ひょっこりひょうたん島』は声だけプレスコで纏め録り。収録は夜9時から開始。声優全員が一室に集まり1本のマイクで録音していた。映像については、当時ビデオテープが高価だったので、ちょん切って編集することはせず、ぶっ通しで撮影していた。
音楽の宇野誠一郎は30時間くらい寝ないで作曲していた。熊倉が宇野のアシスタントとしてドン・ガバチョ役の藤村有弘らに歌唱指導した。」
ここで熊倉氏がトラヒゲの歌を歌うと、黒子(劇団ひとみ座の人)が操るトラヒゲの人形が登場。黒子は左手で人形の胴体を、右手で人形の左右両手を操っていました。
~井上に劇団テアトルエコーの脚本を依頼~
「『ひょっこりひょうたん島』で井上と知り合った熊倉は、井上に劇の脚本を依頼。井上は「20日あればできる」と語ったが、1年経ってもできない。そこで熊倉は市川市にある井上の自宅に押しかけ催促。井上は「30枚できた」と返事し、熊倉は「それでいいです」と応じたが、井上は「つまらないからやめましょう」と引っ込めてしまった。熊倉は劇団の若手を井上宅に寄宿させたが、できたのは脚本『日本人のへそ』の表紙だけ。その後、無事に完成し、上演された。公演には定員を上回る客が訪れたという。テアトルエコーが劇場を新しくする契機ともなった。井上はテアトルエコーに計6本の脚本を書いたが、以後多忙になり、テアトルエコーのために新作を書くことはなくなってしまった。」
~質疑応答~
質問者その1「テアトルエコーの俳優には納谷悟朗、山田康雄、中江真司らがいるが、声優活動に力を入れていたのか?」
熊倉「昭和30年代、テレビは小さかったので外国作品の字幕は見辛かった。そこでアテレコをすることになったが、新劇の偉い俳優にやらせる訳にはいかなかったので、テアトルエコーの若い俳優がしょうがないからやった。」
質問者その2「私はアニメのシナリオライター。井上の晩年の思い出は?」
熊倉「『ゲバゲバ90分』のディレクターの傘寿のお祝いで会った。」
質問者その3「日本テレビ社員だったのに何で俳優になった?」
熊倉「俳優を断念して日本テレビの大道具係になったが、俳優を断念した経歴を知っているスタッフから、空いている時間に「バーテンダーの役をやってみろ」「婆さんの役をやってみろ」と言われてやってみたところ、俳優もできそうだと思った。という訳で日本テレビを退社した。」
質問者その4「『ひょっこりひょうたん島』はなぜ5年で終わった?」
熊倉「一説によると、国民全員が郵便局員という国を描いたところ郵政省からクレームが来た。また別の説によると脚本家2人が多忙になったためディレクターが「続けられるかな」と言った。終わる時期だったということだ。」
以上で講演会の要旨は終わりです。
特別展で私が興味深く鑑賞したのは、本宮ひろ志氏の実録漫画『やぶれかぶれ』の原稿です。この漫画は本宮氏が参議院選挙立候補を目指して活動する様子を描いた作品で、当時、本宮氏と井上は2人とも市川市在住、しかも家は目と鼻の先にあったという。そこで、『やぶれかぶれ』の中では本宮氏と井上が面会する場面が描かれていたのです。意外なところで2人の著名人の繋がりがあったのですね。
(文・絵:コートク)