徳川家康が築城し、江戸時代に将軍職を秀忠に譲ったのちには隠居の場として「大御所政治」の拠点ともなった、静岡県静岡市の駿府城。徳川将軍家最後の居城(静岡藩主徳川家達)としても知られています。2016年8月から天守台の発掘調査が進められてきましたが、その発掘現場から金箔が貼られた黄金の瓦が大量に出土。さらに別の天守台の石垣も発見されました。瓦の様式が豊臣秀吉の「聚楽第」跡から発掘されたものに酷似しており、家康の江戸移封後に豊臣秀吉が築かせた天守台と確認されました。歴史上の大発見に、戦国時代ファンや研究者らが注目しています。
今川義元の居館跡に徳川家康が築き、そして将軍家(徳川宗家)最後の居城ととなったため、徳川家にとって非常に重要である駿府城。現在は官庁や学校の敷地になったほか、旧二ノ丸と本丸の跡地は駿府城公園として一般に開放されています。天守はたびたび焼失し、再建されてきましたが、1635年の焼失以降再建されず、石垣の天守台のみが残されていました。それも廃城後静岡市に払い下げられた折、城跡に陸軍歩兵第34連隊を誘致するために取り壊され、発生した土砂は内堀(本丸堀)の埋め立てに使われて現存していません。
これまで静岡市では、駿府城公園にかつてあった城廓を復元する事業を行ってきました。1989年には東南の巽櫓(たつみやぐら)を復元、そして1996年に二ノ丸東御門、2014年には西南の坤櫓(ひつじさるやぐら)を復元、公開しています。巽櫓と東御門は資料館、そして坤櫓は天井板と床板を取り外し、伝統工法によって復元された建物の構造を見学できるようになっています。
現在は天守を復元するために、天守台の正確な位置や大きさ、石垣の残存状況などの学術的データを収集することを目的とした発掘調査が2016年8月から2019年3月までの期間、実施されています。これまでに天守台跡全体と本丸堀跡を発掘調査しており、今回発掘された金箔瓦と石垣は、天守台内部を深く掘り下げ、より古い時代の遺構を調査する過程で見つかりました。
これまでに発掘された金箔瓦は、およそ330点。表面には貼られた金箔が残存しており、瓦の形や意匠などの様式が、豊臣秀吉が作らせた桃山文化の象徴的存在「聚楽第」跡から出土したものと非常に似ていることが判りました。
また、天守台内部から見つかった石垣は、石垣の表面が現在の駿府城公園に残るもののような整えられたものではなく、自然石のデコボコがそのままになっている「野面積み」という工法によって作られたことが判明。少なくとも関ヶ原の戦い以前、桃山時代までに築かれたものであると確認されました。
ちょうどこの時代の駿府城は、徳川家康が秀吉の命により駿府から江戸へと移封されていた頃。駿府城には秀吉の重臣である中村一氏が入っていました。これは江戸へと遠ざけられた家康が謀反を起こした時に備え、攻め上がるルートを押さえて睨みを効かせる狙いがあったと考えられています。
今回天守跡から聚楽第に通じる様式の金箔瓦が大量に出土し、合わせて桃山時代ごろの石垣が発見されたことで、秀吉が家康に対し、中村一氏の存在を「秀吉が見ているぞ」と強く意識させるために、わざわざ秀吉の聚楽第を思わせる姿の天守を作らせていたことが判ってきました。家康を牽制するため、街道の要所として駿府城を重要視していた秀吉の考えがうかがわれます。
そして同時に、豊臣秀吉の死後に家康は駿府城を改修していますが、この「秀吉の影響力を示す天守」を破棄して、新たに天守を再建していることから、家康の秀吉に対する感情もうかがい知ることができると言えるでしょう。互いにかなりの緊張感みなぎる関係だったと言えそうです。
これから2019年3月にかけて、発掘調査はさらに天守跡を深く掘り下げていきます。今回秀吉の時代の天守跡が見つかったことで、その下には家康が築城した当時の天守跡や、さらにはその前の時代、武田領だった時代や今川義元が拠点とした今川館(いまがわやかた)の跡も発見されるかもしれません。発掘調査の様子は駿府城公園内の見学ゾーン、そして情報を展示している「発掘情報館きゃっしる」で知ることができます。いずれも見学時間は、年末年始の12月29日~1月3日を除く毎日9:00~16:30(入場は16:00まで)。また、ネット上でも「発掘情報館 きゃっしる 別館」にて最新情報を発信中です。
情報提供:静岡市
(咲村珠樹)