59314e43こんにちは、咲村珠樹です。今回の「建物萌の世界」は、建物という訳ではないのですが、素敵な土木構造物の方へご案内します。

東京都中央区にある日本橋。かつて「道のりの総元締は日本橋」と川柳に詠まれた橋です。

徳川家康の江戸城下整備事業(俗にいう天下普請)によって、1603(慶長8)年に初代の橋が架けられました。


架かっている川は日本橋川といいますが、これは自然の川ではなく、江戸城下整備事業によって作られた、神田川(神田上水)からJRの水道橋駅~飯田橋駅間で分岐し、江戸城の外堀の一部を形成しつつ隅田川に通じる……という人工河川です。

道のりの総元締「日本橋」

元々は平川と呼ばれたのですが、しだいに「日本橋が架かってる川だから」ということで「日本橋川」となってしまったようです。大阪の日本橋(にっぽんばし)が架かる道頓堀川も、同じ17世紀はじめに作られた人工河川ですから、ちょっとした共通点ですね。架橋の翌年には五街道(東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道)の起点と定められ、ここからの距離を基準として一里塚が作られました。

現在の橋は20代目。1911(明治44)年3月28日完成、4月3日開通で、2011年でちょうど架橋100周年を迎えます。4月3日が日曜日ということもあり、それに合わせて架橋100年記念イベントが計画されていたのですが、東日本大震災の影響で中止となってしまいました。とはいえ、100周年というのは二度と巡ってこないことですので、秋をめどにイベント開催を模索しているそうです

現在の日本橋は2011年でちょうど架橋100周年を迎える

設計したのは東京市(当時)の技師、米元晋一と樺島正義。装飾は妻木頼黄(実製作は彫刻家の渡辺長男。弟は猫と肖像彫刻で名高い朝倉文夫)が担当しました。「日本橋」の橋名標は、最後の将軍徳川慶喜の揮毫によるもの。

「日本橋」の橋名標は、最後の将軍徳川慶喜の揮毫によるもの 「日本橋」の橋名標は、最後の将軍徳川慶喜の揮毫によるもの

1963(昭和38)年、橋の上に首都高速が作られた(色々言われていますが、当時の町会が橋上の通過を了承したんですよね……)ため、現在はちょっと窮屈で、橋に施された装飾も周りから見えにくくなっているのが残念です。かつては橋の真ん中に「東京市道路元標」が設置されていました。つい「上に首都高ができたので撤去された」と思いがちですが、実はこの道路元標は都電の架線柱も兼ねており、都電が廃止される1971年3月までは現役でした。都電の廃止後、1972(昭和47)年に橋の北詰へと移設保存され、その場所は「元標の広場」となっています。現役を退いた今は、すっかり鳩の休憩所と化してます。

かつて橋の真ん中にあった「東京市道路元標」

東京市道路元標が建っていた場所には、入れ代わりに時の総理大臣、佐藤栄作筆の「日本国道路元標」が埋め込まれています。元標の広場にはレプリカが。

東京市道路元標が建っていた場所には当時の総理大臣・佐藤栄作筆の「日本国道路元標」が埋め込まれている 元標の広場にはレプリカが置かれている

さらに上を見上げてみると、首都高速から見えるように東京市道路元標と同デザインの「道路元標地点」のモニュメントが建っています。

首都高速から見えるように東京市道路元標と同デザインの「道路元標地点」のモニュメントが建っている

このデザインが持つシンボル性の高さが判りますね。

さて、デザインということで、橋に施された装飾を見ていきましょう。まずは親柱の彫刻。守護獣である獅子です。狛犬や仁王のように、左右で阿吽(あうん)の形をとっています。

親柱の彫刻 親柱の彫刻

獅子が押さえているのは、渡辺洪基の発案とされる東京市(当時)の紋章。太陽を中心として、六方に光が放たれるさまを表しているそうで、現在でも東京都章として使われています(イチョウの葉のデザインはシンボルマーク)。

欄干の真ん中には麒麟の彫刻。これは「麒麟現るれば聖人生まる」という中国の故事にちなみ、東京の繁栄を願ってのものです。こちらも阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)が背中合わせに。

欄干の真ん中にある麒麟の彫刻

柱には、日本橋が五街道の起点となっていたことにちなんで、一里塚に植えられていた松とエノキの彫刻が施されていますね。他の欄干装飾にも、同じモチーフが用いられています。

守護獣である獅子ですが、親柱の大きい彫刻だけでなく、様々なところににつけられています。

様々な箇所に飾られる守護獣・獅子の彫刻 様々な箇所に飾られる守護獣・獅子の彫刻

左は親柱、右は真ん中の柱の上部。それぞれ四方に獅子の顔が。また、気付きにくいのですがアーチの頂点に位置する「要石」にも獅子の顔がつけられているのです。

アーチの頂点に位置する「要石」にも獅子の顔が

完成当時はまだ水運が盛んだったので、川からの見ばえにも配慮しているんですね。獅子の彫刻は全部で32にもなります。

灯具は東洋趣味でありながら、どことなく西洋風

灯具は東洋趣味でありながら、どことなく西洋風。

さて、今度は橋本体の方を見ていきましょう。日本橋は初代から、先代である1872(明治5)年に架けられた橋までは木製で、現在のものが初めての石橋となりました。構造的には、花崗岩を使用した二連アーチ橋です。1999(平成11)年、重要文化財に指定されました。

日本橋全景

優美な姿を川面に映していますが、架橋100年を迎えるにあたり、全面的に補修工事を行った際、特徴的な構造が判りました。

日本橋には強度を高めるため石組みの中身にレンガとコンクリートが使用されている

通常、このような石造アーチ橋の場合、城の石垣と同じように石組の中味(アンコと俗称されます)には土(泥)や砕石が使われています。ところが日本橋は、ご覧のようにレンガとコンクリートが入っていて、強度が高められていたのです。

日本橋川の上流にある常磐橋 茶色い石の敷かれている部分が落下箇所を補修した跡

こちらはすぐ近く、日本橋川の上流にある常磐橋。1877(明治10)年完成の、東京に残る最古の西洋式石橋です。もともとここにあった、江戸城常盤橋御門の石垣から石材を利用して作られた橋(薩摩の石工が施工したとのこと)ですが、こちらは中味に通常の土を用いていたせいか、関東大震災で路盤が落下してしまいました。茶色い石の敷かれている部分が、渋沢栄一の資金提供によって落下箇所を補修した跡です。これに対し、日本橋は欄干装飾が損傷を受けたものの、橋本体は無事でした。現在常磐橋は東日本大震災により、常盤橋御門跡の石垣が崩れていることも合わせて、通行が禁止されています。

100年の間には関東大震災だけでなく、戦争もありました。映画「機動警察パトレイバー2The Movie」で、日本橋は攻撃ヘリのミサイルが直撃していますが、現実の戦争でも、空襲の際に焼夷弾が落ちています。これによって焼かれた跡が、今でも各所に残っています。

空襲で落とされた焼夷弾の焼き跡 空襲で落とされた焼夷弾の焼き跡

橋の南詰には、1930(昭和5)年築の野村證券本店ビル(安井武雄設計)があります。これまた名建築なので、一緒にご覧になることをお勧めします。

1930(昭和5)年築の野村證券本店ビル(安井武雄設計)

以前は反対側の北詰に、辰野金吾設計による、彼の代表作である東京駅のようなたたずまいの帝国製麻ビル(1912年築・1990年取り壊し)があり、いい雰囲気をかもしだしていたのですが……。この近辺も、徐々に再開発の名のもとに昔の素敵な建築が無くなってきています。

ライトアップされた日本橋

震災前は、このようなライトアップがなされていた日本橋。震災や戦争をくぐり抜けながら100年の節目を迎え、今も「道のりの総元締」の姿を伝えています。

■ライター紹介
【咲村 珠樹】

某ゲーム誌の編集を振り出しに、業界の片隅で活動する落ちこぼれライター。
人生のモットーは「息抜きの合間に人生」
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