「個性的な人」という形容詞は誉め言葉にも、けなす言葉にも受け取られる言葉です。いい方向に伸びれば「才能」と言われ、人に嫌がられてしまう方向で出てしまうと「あの人はクセが強い」と言われてしまいます。そんな紙一重な「個性」についてのツイートが話題です。

 新宿鮭さん(@shinjukushake)が投稿した以下のツイート。

「小学校→個性は認めない
中学校→個性は認めない
高校→個性は認めない
大学→個性的な人かっこいい
就活→あなたの個性を見せて
社会人→個性は認めない」

 この投稿にはリプライで様々な反応が集まっています。「日本の協調性は同調性」と言った言葉や、個性自体の認識については「他人と違うことを好き勝手やって目立つこと」と勘違いしているという指摘。また、同調圧力に負けやすい日本人の性質についても話が波及し、さらには「個性に加えて大事なのは問題意識かと思う」といった意見などなど、5万8000回のリツイートと9万回以上のいいねが付けられ議論が進んでいます。

 確かに、小学校も中学年を過ぎたあたりから先生の話に意味を感じなくなってしまったり、ルールとして決められた事に理不尽さを感じてしまったりする人は多いかもしれません。特に「発達障害」と括られてしまう子供の場合は集団行動が難しいことが多く、中学から高校にかけては小学校時代よりもより明確に細かい「個性を画一化の為の校則」に当て嵌め、個性をコントロールするよりも潰していこうとする傾向が強いと筆者個人は感じています。
 そして集団でクラス活動ができなければ発達障害用のクラスに入らざるを得ず、その先の進路も「障害者枠」となってしまい、いわゆる「定型発達」と呼ばれている普通の人とは別の成長ルートが用意されてしまいます。

 リプライでは社会からの様々な圧力の中で生きざるを得ない世の中であるという意見、「個」と「公」の概念の欠乏と指摘する意見、世の中は理不尽なものと割り切る意見、個性を活かすためには思いやりと人の話に口を挟まずに耳を傾ける「傾聴」が必要という意見、果たして本当にそうなのかなという疑問、私はあまり気にしないようにしているという意見、本当に様々です。

 リプライを見て感じたのは、少なからずの人たちがこの社会での生きづらさや窮屈さを感じているという事。それだけ、教育が徹底されていると言うべきなのでしょうか?または、今までの「個性」を無視してきたひずみがこの時代になって現れ始めてきていると言うべきなのでしょうか?ただ、一つ言えるのは、協調性が多少なくても学校に行けずにいても何か一つ尖った所があれば、それを強みに生かす事はできるという事。

 何かが壊滅的に苦手であっても、他の得意でカバーする事はいくらでもできると思います。その為には知識もある程度以上は必要ですが。才能あるクリエイターと呼ばれる人たちも、極端に苦手な事がある代わりにすごく才能を発揮できる場所があるから創造、活躍していけるのだと思います。その活躍で救われている人、元気付けられている人、癒やされている人、たくさんいると思います。誰も思い付かなかった発明なども個性的でないと創造できないハズ。数々の発明や便利さが生まれるには突出した才能が必要です(そしてそういう才能がある人は大体、どこか違っている・変人と称されるものです)。その才能を持った人が活躍できる場所を少しでも増やしていければ、もっと生きづらさを感じる人が減っていくのかなと思います。

 ネットでこういう話題が共有できるようになって、この世の中は確実に変わり始めていると感じます。日本はダメだ、いやまだまだ不十分、という声もありますが、声を上げ始めた人たちが少しでも多く、たくさんの同じ声を繋げていくことでまだまだ捨てたもんじゃないこの日本、この世の中になると私は信じています。人の事を変人だと称する人なんて器が小さいと思うのです。大体普通なんて定義、今のこの世の中ではそれが正しいかも曖昧なんですから。

<記事化協力>
新宿鮭さん(@shinjukushake)

(看護師ライター・梓川みいな)