以前にも佐賀県唐津市にある珍スポットを紹介いたしましたが、今回は同じ唐津市内にあり前回よりメジャーであり県外からも訪問者が訪れるという珍スポット『太閤一里塚』の道祖神をご紹介したいと思います。

『太閤一里塚』というのは文禄・慶長の役の頃に作られたものとされ、「一里塚」とつく名称の通り、当初は出兵の居城となった名護屋城から1里(4キロ)ごとに松、檜(ひのき)を植え、塚を築き、休憩の場所としたものと伝えられています。『塚』の意味を調べると「土を小高く盛りあげたもの」と出てくるのでそこだけちょっとこんもりしているのかもしれません。

そして訪れた当日、現地についてみるとこんもりと木が茂っていました。そして生い茂る木々の隙間に入ってみると、ありました。

今回は2体の道祖神が。そして、小さい方の道祖神は男体、女体の2つが並んでいました。
まずは小さい方の道祖神を詳しく見ることに。先端に窪みがあります。根元にはちゃんとパンパンに詰まってそうなタマタマが2個あって、なかなかにリアル。


そして隣の方の女性器をあらわす道祖神をの方には、手前にもう1本聖なる竿が置いてありキューピーちゃんがお供えされていました。ここで祈願した人のお礼かなと思いつつ、女性器の方も観察。
やはり陰核の部分と膣の部分があって、隣のものと合わせておそらく2体で1つなのだろうな、と思いながら、更に穴の中を覗いてみると、なんと穴の奥に何かが彫られているような……もしかして、子宮口!?ここはかなりご利益があるのかもしれません。

驚きの発見にドキドキしながら、大きい方の道祖神へ移動しました。こちらの方はかなり大きい。3メートル近くはあるでしょうか。

大きな道祖神の横に、太閤一里塚についての石碑がありましたので、読もうとしたところで、その奥に大きな岩があるのに気が付きました。しかも、岩の真ん中に穴があります。やや後方には「浄窓」という人の詠んだ道祖神の歌碑が…もしかしなくてもこちらも対の道祖神では、とようやく気が付きました。

そして手前にある石碑には、

「太閤豊臣秀吉は 朝鮮出兵にあたり肥前国名護屋を前迫基地として天正二十年(文禄元年)四月二十五日には 自ら名護屋城に来て指揮をとりました そして 大阪と連絡のため名護屋城大手門を起点として 一里(四キロメートル)ごとに早飛脚二名を駐在させ普通〇〇間かかるところを六日間で連絡させました。

この地は名護屋城の一の城戸にあたる所で第三番目の一里塚にあたります。今から三百八十年前数万の戦国の将兵が佐志の坂を上り名護屋城を目前にして 一息ついたところといえます。

 江戸時代は 唐津と名護屋城を結ぶ名護屋街道となり 旅の安全を記念する庚申塚が建てられました この塚は男女のシンボルをその神体としており それを再現したものであります」

とありました。

一部文字が消えかかっていますが、とりあえず読み解いたところ、秀吉の世の後に一里塚が庚申塚になったようですね。他の庚申塚とまた意味合いの違うこの道祖神の形になった理由は不明ですが、ここは唐津市佐志地区から七ツ釜に抜ける道筋。ここが地域の境界線だったか、一里塚が出来たことで地域の守り神として道祖神を建てたのかもしれません。

こちらは唐津城から約9キロ(カーナビ計測)、市役所から真っすぐ西唐津方面へ向かい、七ツ釜方面へ向かう道筋にあります。

本来ならこの一里塚の後ろにある建物は美味しいちゃんぽんのお店らしく、そこでランチをする予定でしたが、行ってみるとしばらく休業の看板が出ていました。残念。

撮影などの際、一里塚前の道路はビュンビュン車が走り抜けていくエリアになっています。車を停めるスペースはありますが、道路に出る際は気を付けて。前回お届けした鏡山道祖神と合わせて車でなら半日で回れるコースです。初夏のラブラブデートの行き先としてぜひお出かけくださいね。

(天汐香弓・PinkMagazine編集部)