今年、2012年は明治天皇の100年祭(そして大正100年)に当たります。1912年7月に明治天皇が崩御あそばされて100年。中村草田男の句じゃないですが「明治は遠くなりにけり」ですね。そんな訳で、今回は明治天皇ゆかりの建物に行ってみましょう。
明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする明治神宮。毎年初詣の人出が全国一であることでも知られている神社です。その社殿のずーっと奥、境内の一番北側に建っている建物があります。今回ご紹介するのはこれ。明治神宮宝物殿です。
一般的に「明治神宮の最寄り駅」というとJR原宿駅(この連載の第7回で紹介)ですが、ここから宝物殿まではたっぷり20分(およそ2km)はかかります。この宝物殿へは、むしろ小田急小田原線参宮橋駅、もしくは東京メトロ副都心線北参道駅やJR代々木駅の方が近いので、もしお出かけの際はご参考までに。
参拝者で賑わう社殿とは対照的に、静かな雰囲気の中に建つ宝物殿。まずは門が出迎えてくれます。下に向けて緩やかに広がるラインは、城の石垣のラインを参考にしたものとも言われます。
柱の上部には、なにやら不思議な顔の装飾があります。これは神楽面をモチーフにしたもののようです。ちょっと南の島っぽい感じのデザインですね。宮崎県宮崎市に伝わる野島神楽にも、南方系のデザインをした(日向倭冦の時代に渡来したとされる)神楽面がありますが、こっちの方がよりバリ島っぽい感じ。魔除け的な意味合いなんでしょうか。
外見はちょっと大陸風ですが、窓には矢羽根模様のデザイン、吊り下げられた照明は置灯籠のようなデザインで、和風ながらもモダンなモチーフが使われています。
門をくぐると、芝生の前庭をはさんで目の前に広がるのが、明治神宮宝物殿の全容。広くて立派です。
日本における最初期の鉄筋コンクリート建築で、デザインとしては校倉風大床造。モチーフは奈良の正倉院です。2011年6月には、国の重要文化財に指定されました。
この建物は、明治神宮造営に際し、明治天皇と昭憲皇太后ご遺愛の品を保存・陳列する為の施設として計画されたものです。設計は1915(大正4)年、耐震・耐火構造、デザインは社殿に調和するものということを条件に一般公募され、入選作6案、選外佳作5案が選ばれました。この入選作の中には、フランク・ロイド・ライトの弟子として知られ、自由学園明日館(この連載の第6回で紹介)を共同設計した遠藤新の作品もありましたが、デザイン画を見ると見事に和風で、全然ライトっぽくないのが面白いところです。
しかし設計案を一般公募したものの、建物の目的が当初より展示を重視するものに変更された為に入選作は使われず、そのコンセプトを参考に神宮造営局の主任技師だった大江新太郎が新たに設計し、長崎橋本組施工のもと、明治神宮創建(鎮座)翌年の1921(大正10)年に竣工しました。大江新太郎はそれ以前に、日光東照宮の修復工事で陽明門などを手がけています。明治神宮造営局へは、前任の主任技師、安藤時蔵が急死した為に、工営課長(建設の責任者)であった伊東忠太の依頼で参加していました。この後は伊勢の神宮で式年遷宮事業にも参加しており、晩年には神田明神の社殿も手がけるなど、神社仏閣建築の専門家ともいえる人物です。
建物のレイアウトを見ると、両翼に建物を対称に配置しており、いわゆる寝殿造と同じ形になっています。真ん中にある「寝殿」に相当するのが、展示用の中倉。
表面には花崗岩が貼り付けられていますが、校倉造のログハウス的デザインが鉄筋コンクリートで再現されているのは面白いですね。校倉造の利点は、塗り壁でなく木材が重ねられているだけなので、壁に通気性が確保されている点ですが、コンクリートだとそうはいきません。よく見ると、屋根のすぐ下の部分に格子状の通気口が作られているのが判ります。
設計者の大江新太郎が残した論文「宝物の保存と蔵の知識」によると、蔵は気密性の高い鉄筋コンクリートで、自動的に温度・湿度調整のできる換気口を持ち、地面からの湿気が入らないよう床を高くして吹き放しにすること、内装は木など吸水性のあるものを使用することが理想的……などと説いています。実際、この宝物殿の内装は(撮影禁止なのでお見せできませんが)木ですし、床を高くした大床造の鉄筋コンクリート建築ということを考えると、構造的には彼の理想とする「蔵」を具現化させたものと言えそうです。
屋根は反りを持つ立派なもので、小さいサイズの独特な瓦を使って、こけら葺きのような葺き方をしています。妻の頂点には菊の紋章。鬼瓦も立派です。これら屋根瓦は1983(昭和58)年からの改修工事で葺き替えられたもので、オリジナルの鬼瓦は現在建物の横に展示されています。
寝殿造りの「東対」「西対」、そして「中門廊」にあたる両翼部は、柱の並ぶ休憩所のようなスペースになっています。このスペースは寝殿造りで言う「中門」にあたる部分のようですね。手前には、同じく「車宿」や「侍所」に相当する部屋のような部分がありますが、創建当初はどのように使われていたんでしょうね。壁面は門と同じく、城の石垣のような末広がりのカーブを描いています。柱の上部には唐草模様の装飾がついていますが、ちょっと面白い形。大江新太郎は日露戦争後の1905(明治38)年に満州の建築を視察していて、その時にこのような唐草の装飾などを色々見てきているので、そのデザインも参考にしているかもしれませんね。来館者は奥の階段を上って、2階に相当する高さの展示館である中倉への渡り廊下へと出る形になっています。この渡り廊下もいわゆる遣水(やりみず)を下に通す「透渡殿」のような形になっていて、寝殿造りの構造に忠実です。
展示館である中倉の入り口は二重構造になっていますが、これも来館者の出入りに際して外気の流入を最小限にとどめる工夫として、大江が提唱したものです。……で、中は撮影禁止でご紹介できないのですが、明治天皇が執務にお使いになった机や筆記具、御料馬車などが展示されています。天井は体育館のようなカマボコ形(ボールト形状)で、しかも格天井という独特の形になっており、外見からは想像できません。
中倉の後方には、車寄せのついた客殿があります。皇族の方々や、いわゆるVIPと呼ばれる人々が見学に来た際は、こちらから出入りするという形になっているようですが、通常正面とか表側の目立つところにある施設が、裏手に作られているってのが面白いですね。ここは寝殿造りの構造では、寝殿の後方に作られた日常空間である「北対」の場所に当たりますが、レイアウト上、ここに当てはめざるをえなかったってことなんでしょうか。
さて、中倉は「展示館」ということで、収蔵庫から適宜宝物を選んで定期的に展示替えをするところ……というコンセプトで作られています。では収蔵庫は、というと、両翼部から更に張り出した場所に、左右一棟ずつ作られています。こちらは保存の為、さらに気密性を重視して、窓は最小限。そして大江が「宝物の保存と蔵の知識」で提唱した通り、1日に浴びる日光の量を平均化する為に、南北に長い作りになっています。本当に徹底したレイアウトですね。
さて、耐震・耐火の構造で、設計者大江新太郎が理想とする宝物蔵として完成した明治神宮宝物殿。実際にはどうだったかというと、完成後間もない1923(大正12)年の関東大震災ではビクともしませんでした。さらに1945(昭和20)年4月14日の空襲で、明治神宮は社殿のほとんどを焼失してしまいましたが、空襲が始まった時点で宝物殿に避難させたご神体や神具の数々は、建物の耐火構造により火災の影響を受けずに焼失を免れ、見事に「宝物を守る」という当初の機能を発揮したのでした。
創建当初は周りに何もない土地だったそうですが、今はビルが建ち並び、特に代々木のドコモタワー(NTTドコモ代々木ビル)がすぐ近くに見える立地となった明治神宮宝物殿。設計者の理想を具現化し、見事に「明治」という時代を物語る品々を90年にわたって守ってきた蔵は、今日も静かにたたずんでいます。
●記事内関連リンク
【建物萌の世界】第7回 神宮の森を背にして
https://otakuma.net/archives/5079767.html
【建物萌の世界】第6回 放課後気分のティータイム
https://otakuma.net/archives/4861950.html
(文・写真:咲村珠樹)