8月15日は終戦記念日、戦争を知らない世代であるからこそ、戦争を知らない世代としてなにがあったのか、そしてなにを子どもに伝えられるのかということを考えるために『大刀洗平和記念館』へ行ってきました。
同館は、復元された零戦三二型が展示されている記念館です。現在は筑前町立の施設となっていますが、当初は地元の建設会社の経営者が、現在の記念館の向かいにある、甘木鉄道太刀洗駅の駅舎を借りて展示スペースを設けた私設の記念館でした。そのため、地元でも記念館があることは知られていても、長らくの間全国的にあまりメジャーとは言いがたい戦争に関する記念館として存在していました。
福岡県朝倉郡筑前町、三井郡大刀洗町にまたがるエリアに1919(大正8)年、旧陸軍によって建設されたのが太刀洗飛行場です。航空隊が中国大陸へ向かう中継地点としてこの場所が選ばれたとされています。開設当初は、当時における他の飛行場と同じく、広大な土地があるだけで特定の滑走路がある訳ではなく、飛行機は野原のどこからでも滑走して離陸していました。
最初は、モーリス・ファルマン(モ式)偵察機を主力とする航空第四中隊(のち大隊)が、埼玉県の所沢飛行場(現在の所沢航空記念公園)から移駐し、続いて1919年12月には久留米憲兵隊・太刀洗分遣隊が設置されました。1925(大正14)年に航空第四大隊は第四飛行連隊となり、さらに台湾飛行第八連隊も同居するようになって、定員1500名、日本最大の飛行連隊を擁する飛行場となります。現在の甘木鉄道は、もともとこの太刀洗飛行場へ物資を輸送するために建設された鉄道省の路線(甘木線)でした。
昭和に入ると付随する施設が増え、1939(昭和14)年には第五航空教育隊が開設されて、最大時には6.000人の航空技術兵が在籍していました。飛行第四連隊が熊本の菊池飛行場に移駐したのちの1940(昭和15)年には大刀洗陸軍飛行学校が設置され、陸軍航空兵の飛行機操縦教育における西日本の拠点となります。飛行機操縦に従事する少年飛行兵や特別幹部候補生が、ここから巣立っていきました。つまり太刀洗は飛行機の整備などの技術者、そして操縦士を養成する教育の拠点だったのです。知覧(鹿児島県)や目達原(佐賀県)など、多くの飛行場が大刀洗飛行学校の分校です。
太刀洗平和記念館に入ると、まず九州飛行機(渡辺鉄工所)が製造したエンテ(前翼)型飛行機、旧海軍の試作局地戦闘機「震電」の説明があります。1944(昭和19)年に、横須賀(神奈川県)にある海軍の航空技術厰で開発された震電は従来までの戦闘機と違い、前方に大口径機銃を集中配置した戦闘機です。試作のみで、実践に配備されることのなかった震電の試験飛行を見た人の証言などが展示された貴重な一角になっていると同時に、日本の飛行機技術が終戦間際でも素晴らしいものだったことを知ることが出来る展示になっています。
太刀洗飛行場の歴史などをたどって館内を歩いていくとやがて奥の方に零戦三二型・Y2-128が展示されています。この零戦三二型はマーシャル群島のタロア島で、国連信託統治政府の委託により、南太平洋での不発弾処理に従事していたスティーブ・アイケン氏によって発見され、サイパンで保管されていたものを福岡航空宇宙協会が譲り受けたものです。日本に存在する唯一の三二型です。
この戦闘機はタロア島の戦いで亡くなった第二五二海軍航空隊初代司令、柳村義種大佐(戦死後少将)のものとされています。機体に書かれたY2の文字が第二五二海軍航空隊(Yは柳村大佐のイニシャルに由来するとされている)を示しているのです。記念館には、柳村大佐の最後の様子として『還って来た紫電改』第3章が記されています。
こちらの記念館で唯一撮影が出来るのがこの零戦でした。そしてその零戦と共に復元された計器も展示されています。そこには旧第21海軍航空廠の名前で「昭和18年(皇紀2600年)(1940年)海軍機として制作され第二次大戦に活躍した後 遥か南方のマロエラップ環礁タロワ島にのこされていたものを福岡航空宇宙協会の盡力により昭和58年3月(1983年)ようやく帰還したこのゼロ式艦上戦闘機Y2-128号に対しその労をねぎらうと共に再会の喜びをかみしめ機体の復元作業に協力しこの計器を贈る」と書かれていました。第21海軍航空廠は長崎県大村市にあった航空改修などを担った航空機工場です。ここの有志たちにより、この零戦は修復され、今も私たちに在りし日の姿をみせてくれています。
さて、記念館をさらに回ると、当時の太刀洗飛行場の周囲に住む子どもたちの様子がみえてきます。使っていた教科書やかるたなどが展示されていて、その奥に「追憶の部屋」があります。「追憶の部屋」は飛行場跡近くに住むおばあちゃんと孫のふたりが主人公の映画が上映されています。大刀洗陸軍飛行学校に勤める父、ここで飛行機の生産に携わる妹、そして少年飛行兵として学ぶ兄を持つおばあちゃんが、今も残る近くの史跡を孫と辿っていきます。やがて話は昭和20年(1945)3月27日にこの飛行場を襲った空襲(第1回太刀洗空襲)へ話が移っていきます。そしてこの日生き残った、とあるおばあちゃんがみた、頓田の森での悲劇の話になります。
3月27日、飛行場近くにある朝倉郡立立石国民学校(現:甘木市立立石小学校)は修業式でした。式の途中突然サイレンが鳴り、空襲警報へと変わりました。子ども達は先生に連れられてそれぞれの地域別に避難をはじめます。その中に、爆撃目標である飛行場に最も近い一ツ木地区の子どもたちがいたのでした。一ツ木地区へ向かうことが出来ず頓田の森へと向かった子どもたちは、訓練通り耳に指をあて伏せの姿勢をとって丸く固まっていたのです。その上にB29の爆撃は落とされ、24人の子どもが即死、重傷者7人が病院で息を引き取りました。太平洋戦争中、一発の爆弾で子どもが30人以上死亡したのは沖縄以外だと、この立石小学校の子どもたちだけなのです。
サイパン島アイスリー基地を飛び立った74機のB-29によるこの空襲の後、この大刀洗から続々と特攻へ向かう若者たちが旅立っていったのでした。上映の最後、おばあちゃんが古い零戦のおもちゃを孫に託します。それはおばあちゃんの兄が特攻前に残したものでした。こうして映画は孫へ戦争を語り継ぎ終わります。
頓田の悲劇に心を痛めながら追憶の部屋を出ると、特攻についてまとめられたコーナーがありました。太刀洗飛行場から特攻出撃した、大型対艦爆弾を装備する陸軍飛行62戦隊の四式重爆撃機「さくら弾機」の搭乗員のことや、特攻のため旧満州から知覧飛行場(鹿児島県)へ飛行中エンジン不調に陥り、博多湾に不時着水を余儀なくされた機体であるといわれる旧陸軍の「九七式戦闘機」(渡部利廣少尉機。少尉はのちに別の機体で特攻出撃)が展示されています。この九七式戦闘機は現存する唯一のもの。展示されている特攻へ向かう若者の手紙の他、持ち主を探している日章旗もありました。
2階には「少年飛行兵と予科練生」という企画展示コーナーがありました。こちらは2017年12月13日までの企画展示です。また新館には「朽ち果てた零戦」として福岡と鹿児島の錦江湾から引き揚げられた零戦二一型と五二型の残骸が展示されています。ふたつの残骸を組み合わせても悲惨な姿に思わず入口で立ちすくんでしまいます。
今でこそ静かなこの街になにがあったのか、そしてここから飛び立った少年たちが残したものが多く展示されている記念館でした。一般の人だけでなく学校の先生が多く訪れていたのが印象的でした。
記念館を出た後、周囲に残る飛行場跡などを見て回ることにしました。
第五航空隊教育隊正門跡は記念館入口のすぐ脇にあります。1939(昭和14)年に開隊した航空技術兵学校の正門跡で、こちらに移設されてきたものです。
そして赤い煉瓦の壁は、憲兵分隊舎の跡を示すものです。私有地になっているところが多く、撮影できるのは道路側からですが、ここに駐留していた憲兵が飛行場の近くで警備にあたっていたことが分かります。
赤い煉瓦に古い木札が残る門柱は「飛行第四連隊正門」の跡です。後の大刀洗陸軍飛行学校の正門としても使われました。本来あった場所からやや移動していますが、ここから中国大陸や南方へと多くの隊員が出撃していったところです。
資料館から少し先に進んだ原地蔵公民館の敷地に、時計台跡があります。飛行第四連隊の本部庁舎前庭に時計塔として建っていたもので、現在は慰霊碑として改修され、追悼のシンボルとして千羽鶴などが飾られています。時計台跡の横には、「西日本航空発祥之地」という大きな碑があります。時計台の近くには「監的壕」という射撃訓練(着弾観測)に使われていた壕もあります。こちらは看板から奥に入らなければ見ることが出来ないのですが、私有地のため立ち入ることが出来ませんでした。しかし遠目にみてもわかるほど崩れてきていて、修復移設されて保存されればいいなと感じました。
大刀洗公園に入ると、南北朝の時代の武将菊池武光像があります。この裏の馬の腹や台座などには、大刀洗空襲の時に機銃掃射された際の弾痕が残されています。銅像を下から覗いても分かる小さく深いその跡に衝撃の大きさが伺えます。
その後大刀洗飛行場跡の周囲をぐるりと回り、朝倉市に入りました。細い道の向こうに小さな森が見えてきます。ここが「頓田の森平和花園」です。3月27日、一ツ木地区の子どもたちが逃げ込み、亡くなった場所です。とても静かな場所で、社は台風も近いせいかたくさんの千羽鶴が風に揺れていました。
大勢の子どもたちが水を求めていたからでしょうか?水も多くお供えしてあります。お水を持ってきてあげれば良かったかなと思いながら平和花園を後にしました。
戦争を知らない私が、同じく戦争を知らない子どもに少しでもなにか伝えられたらいいなと思い訪れた大刀洗でしたが、零戦や特攻の歴史だけでなく、失われた小さな命のことまで展示されていてとても驚きました。そこに建物が立ち、訓練する学生や教師たちが住めば自然と人はそこで商売をはじめ街は大きく形成されていくのは当たり前のことです。街が大きくなることに罪はありません。飛行場を中心に商店などが軒を連ねるようになったこの街で当たり前のように過ごしていた子どもの命が奪われたことはやはりショックでした。
記念館を出た後、知覧の記念館も訪れたことがある当日同行していた子どもに感想を聞いてみました。感想としては「見たものをそのまま」感じたそう。実際に零戦が展示されていてこれで戦争をしていたのだという実感が持ちやすかったこと。知覧とはまた違う意味で勉強になったと答えてくれました。
近くには他にもたくさんの戦争の傷跡、そして平和記念館や資料館があります。また子どもと行く機会があれば今度は別の場所を回って親子で忘れずにいようと思いました。
(天汐香弓 / 編集・咲村珠樹)