何かと世間を騒がせる「終末論」。地球滅亡に人類滅亡――。
この9月にもマヤ文明の暦では9月3日に滅亡すると騒がれたり、9月28日の「ブラッド・ムーン」にも滅亡すると騒がれたりしています。でもどちらも結局人類も地球も滅亡していません。
正直なところ、この話題は毎年のように騒がれており、時期がすぎれば「あぁ、また滅亡しなかった」というお約束が待っているわけです。まるでダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞ」のお約束芸のようです。騒ぎはするけど、お約束のオチが待っているという。ある意味地球規模での「終末祭り」とも言いましょうか……。
さてその「終末論」。実のところあとどれぐらい「滅亡する」と言われているのでしょうか?気になったので直近の予定を調べてみました。今後の「終末祭り」の予定を参考までにご紹介。
※注意※
この記事は若干長めですので暇な時にゆっくりお読み下さい。
あとこれはあくまでネタ記事です。この手の記事を公開した後、世のオカルト好きな方から「何かの陰謀ではないか」「この手の記事が出ることは何かが動き出した!」など勝手に解釈されることがありますが、筆者は全くもって何も企んでおりません!!いいね、筆者とのお約束だからね!この記事はネタ記事だからね!
※追記※
本稿で紹介した2020年の予言について、コロナ禍との関連を疑う声があがっていますが、本稿は2015年時に↑に書いたとおり、単なるネタ記事です。変な憶測などの裏付けに使うのはおやめください。(2020年5月6日追記)
■2017年5月14日に人類滅亡?な、なんだってー!!
旧約聖書正典の一書で紀元前164年頃書かれたと言われる『ダニエル書』。その中に人類の未来に関する予言があるとされています。
この「70週の予言」の25節に
「エルサレムを建て直せと命令がでてから、メシヤなるひとりの君がくるまで7週と62週あることを知り悟りなさい」
という文言があるようです。
2017年滅亡論では、この「週=年」、「エルサレムを建て直せ=1948年5月14日のエルサレム再建(イスラエル建国)」と解釈し、イスラエル建国から69年後の2017年5月14日に人類が滅亡するのではないか?となっているもよう。
ただ本書の研究者の中では、この「週」は原文で「7」を意味するとし「7年」と解釈。そして69×7年=483年を導きだし、「イスラエル再建の年」については、ペルシャ王が律法学者エズラにエルサレムの再建を託し帰還命令を出した紀元前457年と仮定。すると483年後は26年。26年はイエスが公生涯(公の活動)に入ったあたりの年となり、その3年半後にイエスは十字架にかけられます。そのため25節はイエスの出現を示しているのでは?と。
予言解釈としては後者の方が完成度は高そうです。そうなるととっくに終わった話になりますが……。
■マヤ暦からは次回のお知らせ状態…今度は2020年3月20日!?
終末論ではしょっちゅう根拠として持ち出される「マヤ暦」。
そのマヤ暦が2012年12月23日までだ!という事でこの年には“やや”世間で騒がれました。1999年の終末論よりはあまり騒がれなかった印象。
この時はマヤの長期暦が2012年12月21日から23日までで終わると解釈され、それがどうも終末論に紐付いたもよう。マヤ文明の研究者らはこの説について、「単に暦が新サイクルに入るだけ」と否定しています。
そして実際2012年12月23日には何事も起こりませんでした。
ただこの「マヤ暦終末論」支持者からは、実は「うるう年」を換算していない計算間違いだった!と新たに発表され、冒頭説明したとおり2015年9月3日だ!となったのですが、こちらは“ほんの軽く”騒がれたのみで、勿論人類は滅亡していません。
なお、この「うるう年」を換算しなかったネタはやや引っ張って、フランスの科学ジャーナリストによると、「2020年3月20日がマヤ暦の終わり」とのこと。ここまで引っ張られるとまるで「次回をこうご期待」状態です。
■聖徳太子の予言……
これまで海外発の予言をお届けしてまいりましたが、締めは日本から。
想像的には卑弥呼様?と思うかもしれませんが、予言しているのは聖徳太子だそうです。最近では存在自体疑われている謎多き人物。さて、一体どんな予言をしているというのでしょーーうかっ!
生まれて直ぐに言葉を発し、幼少時にはすでに学問を修め、1度に10人の人の話を聞くことができたというハイスペックな聖徳太子(伝承上は)。その聖徳太子が次のような予言を残している……と騒がれております。
「私の死後二百年以内に、一人の聖皇がここに都を作る。そこはかってない壮麗な都になり、戦乱を十回浴びてもそれを越えて栄え、一千年の間、遷都はないだろう。 だが一千年の時が満ちれば、黒龍が来るため、都は東に移される
それから二百年を過ぎた頃、こんどはクハンダが来るため、その東の都は親と七人の子のように分れるだろう」
この予言の出所は聖徳太子の予言書と言われています。聖徳太子の予言書といわれる『未来記』。これが大元のようなのですが『未来記』は所在不明で今では見ることができません。そのため直接的な予言の出所は『未然本紀』といわれています。
『未然本紀』は『未来記』を読んだ人の口伝えで書かれた物と言われている書物。1675年~1679年頃に「聖徳太子没から1000年後ぐらいまでの予言書」として刊行されています。
ということで、この予言の解釈を見ていきましょう。
予言は聖徳太子25歳の時の予言ということなので、西暦にするなら599年。今から約1400年前の予言になります。
聖徳太子は622年死去といわれており、そこから約200年内に何が起きたかというと、思いつくものとしては794年の平安京遷都(現在の京都市中心部)。桓武天皇入京以降、1869年に政府が東京に移転するまでの1075年もの間、日本の首都としてありつづけました。このあたりは予言と大体一致してますね。
そして、「一千年の時が満ちれば、黒龍が来る」とは?
794年平安京遷都に1000年を足すと1794年。日本は江戸時代末期。この頃で「黒龍」に関わりそうな出来後としてピンとくるのはやはり「黒船来航」!!
でも……水をさすようですが、黒船が来航したのは1853年。予言の1794年に59年もの誤差があります。残念でしたぁぁぁ!
と茶化したいところですが、平安京遷都から1000年後の1794年に……黒船で日本に来航したマシュー・カルブレイス・ペリーが誕生しているのです。この一致、ゾクゾクしませんか?
終末論については、続く言葉「それから二百年を過ぎた頃、こんどはクハンダが来るため、その東の都は親と七人の子のように分れるだろう」の部分がおおいに影響しているようです。
「クハンダ」とは一説によると「悪鬼」と解釈されています。クハンダは仏教では「鳩槃荼」と書き、鳩槃荼は「人の精気を喰らう鬼神」。姿形ははっきりとは分からないようですが、奈良興福寺には八部衆の一人としての像があり「夜叉」に相当します。つまり、予言を解釈するならば「それから二百年を過ぎた頃、こんどは鬼神or夜叉が来る」という感じでしょうか。後半の「その東の都は親と七人の子のように分れるだろう」は東の都が東京と解釈できますが、「七人の子のように分かれる」は不明。
時期についてですが、終末論支持者からは「黒船来航」の1853年を基軸に考えられているようです。つまり2053年。
ただペリーが誕生した1794年基軸と、首都が京都から東京にうつされた1869年基軸も考えられます。その場合は、ペリー誕生基軸が1994年。首都が移された年を基軸にすると2069年となります。
1994年は既にすぎており、何事もなかったので除外するとして、残りを考えても2053年と2069年のどちらかで何事かが起こる可能性があるわけです。
この予言、貴方ならどう受け止めますか?
――信じるか信じないかは貴方次第……
と、締めたいところですが……続きがあります。
まず予言の出所『未然本紀』についてですが、この本は72巻からなる『先代旧事本紀大成経』の一部になるそうです。この本は1675年~1679年頃に版元「戸嶋惣兵衛」よりシリーズで好評発売されました。が!内容に矛盾や問題が色々あって、幕府によって「偽書」と判定されています。
そして肝心の予言の部分ですが、『未然本紀』にはどうも見当たらないような?国会図書館デジタルの『皇太子未来記 : 未然本紀』を頑張って読んでみたのですが、該当すると思われる内容がなさそうなのです。私の読み方が悪いだけかもしれませんが……。
念のため他にも調べてみると、予言の原文といわれる「二百歳後 有一聖皇 再遷成都」に似た言葉が、平安時代中期成立(917年頃)とされる『聖德太子傳略』(聖徳太子伝暦)の三十三歳の章に見付けることができました。「三百歳後、有一聖皇再遷成都」。
三百年と二百年の違い。一文字変えただけで誰かがこれを参考に書いたのかも?以降の滅亡に関わりそうな予言の文言はみつかりませんでした。予言とはつきつめればこんなものなのかもしれません。
言葉とは人から人に伝わる内にいつしか本来の意味が失われ、単なる発言が「予言」にまで進化することもあるようです。特に有名人の言葉ならばなおのこと。予言とは、時代時代の人の欲を写し出す鏡なのかもしれません。
▼参考:
国会図書館デジタル
『聖徳太子伝暦 2巻』
『皇太子未来記 : 未然本紀』