「ナナメ観 特撮映像館」、第十回目となる今回より「ゴジラシリーズ」を紹介してまいります。まずは記念すべき第1作『ゴジラ』から。
日本が世界に誇るムービースターと言っても過言ではない「ゴジラ」の第1作である。
ある映画の企画がだめになり、急遽作られたという経緯があることは知られていると思うが、そんなことを感じさせない重厚な作品になっているのが第1作の『ゴジラ』と言っていいだろう。
すでにアメリカ映画などで登場していた巨大モンスターというモチーフをいただいてきたり、当時ニュースを賑わせていた核実験を取り入れたりと、話題性もあったと思うが、本作は大ヒットし、すぐに続編の制作が決まったようだ。そして制作から50年以上経ったいま観ても色あせていない。
巨大な怪獣が東京を壊滅させる、と第1作を乱暴に表現してもかまわないと思うが、それ以上にゴジラの登場をめぐって展開される人間ドラマがじっくりと描かれていることにいまさらながら感心する。
本作は映画がモノクロで制作されていた時代であり、同時に戦争の記憶も鮮明な時代でもあった。ゴジラに破壊された東京はさながら空襲のあとの風景のようでもあり、被害者やけが人が運び込まれた病院も戦時中のそれを想起させるに十分だったろう。
さらに言えば日本が唯一体験した原爆の被害を上回る核兵器の実験が行われているという世界情勢の中で、作中登場するゴジラの対する唯一の兵器、オキシジェンデストロイヤーを巡る発明者の苦悩は、現在の大量破壊兵器に対する思いと通じるものがある。
ところで、その後のゴジラ映画でゴジラの強さというか無敵さが描かれていくわけだが、この第1作で、志村 喬演じる古生物学者・山根博士がゴジラ対策を聞かれてこう答えるシーンがあることに気がついた。
「水爆にも打ち勝ったゴジラをどう倒すというのだ」というようなセリフである。
そう言われてみれば通常兵器を全く受け付けないゴジラの強さというのは納得できる。また、そのゴジラの驚異的な生命力に注目し、研究することの重要性を主張する山根博士は、ゴジラの被害によって人々の犠牲が増えていくことに耐えかねる娘(河内桃子)やその恋人(宝田 明)とも対立してしまう。
作中では、水性恐竜が陸生恐竜へと進化する過程の両生類的な生物と仮定されているゴジラは、海中のどこかで密かに生息していたが、水爆実験の影響で狂暴になり、日本本土に上陸してくる。光に対して敏感で、光をみると凶暴性を増すというのが山根博士の観察結果である。
80年代の新ゴジラシリーズとゴジラ2000以降のミレニアムシリーズ各作品は、第1作『ゴジラ』からの直接の続編というスタンスで制作されている。とはいえ、それはゴジラというモンスターの存在を54年に確認したという点のみで、水爆実験がもたらした人類への警告とか驚異といったテーマまで含めた続編というのは、金子監督の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ~』くらいではなかっただろうか。
ゴジラという怪獣がたんに暴れ回るということに終始してしまった点でその後のシリーズ作品が第1作を超えられないのかもしれない。
この第1作『ゴジラ』をリアルタイムで劇場で鑑賞したという「ゴジラファン」は実は意外と少ないのではないか、と推察している。当時大ヒットとなった映画ではあるが、劇場で鑑賞した人々の中に、その後のシリーズまで「ゴジラファン」として追いかけた人がどれだけいただろうか。続編である『ゴジラの逆襲』、また『ラドン』『モスラ』といった巨大怪獣作品へは足を運んでも、テレビに怪獣が登場し、「ゴジラ映画」そのものが子ども向けの作品になってしまった時点で第1作のファンは離れて行ったのではないかと思う(もちろん年齢的な理由もあるだろう)。また逆に『ゴジラ』がモノクロ作品であるがゆえに、その後のシリーズで「ゴジラファン」になった者にはなかなか鑑賞しづらい状況でもあった(家庭用ビデオが普及し、ソフト化される以前はほとんど観る機会がなかったといっていい)。雑誌や書籍で紹介され、半ば伝説的な印象すら与えられてしまった第1作は、作品として素晴らしいものだが、それ以上に神聖化されてしまった感も否めないのである。
監督/本多猪四郎(ゴジラ)、特技監督/円谷英二
キャスト/宝田 明、河内桃子、平田明彦、志村 喬、ほか
原作/香山 滋