初夢で見ると縁起が良いとされている「一富士二鷹三茄子」。筆頭に挙げられる富士山は世界遺産の選定理由にもあるように、古くから信仰を集めてきました。
とはいえ、日本最高峰ということもあり、気軽に登ると高山病になることも。そこで江戸時代の人は富士山から溶岩を持ち帰り、全国各地に小さな「富士」を作って代わりとしました。そのうちのひとつ、都内に残る最古の富士山に登ってきました。
山に神性・霊性を感じ、信仰の対象とすることを「山岳信仰」といいますが、富士山はその代表的な例。江戸時代も半ばになると富士山を信仰する人々は「富士講」を作り、その中心的存在である富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)への参拝や、富士登山をすることが一種のブームとなりました。
といっても江戸時代のことですから、誰もが気軽に富士山まで行くことはできません。そこで各地の富士講では、代表者が富士山に登ってその溶岩を持ち帰り、地元にミニサイズの「富士」を作って登ることで、富士登山の代わりとしました。こうして作られたものを「富士塚」といいます。
東京都内に現存する富士塚の中でも、最古のものとされるのが鳩森八幡神社(東京都渋谷区千駄ヶ谷)にある富士塚。記録によれば1789(寛政元)年の築造と伝えられ、1981(昭和56)年には東京都指定有形民俗文化財となっています。
鳩森八幡神社の富士塚は、鳥居をくぐってすぐ、手水舎の向かいにそびえています。構造としては土を盛り上げた築山に岩を配し、頂上周辺に富士山の溶岩を配したもの。関東大震災によって一部損壊し、修復がなされています。
鳥居をくぐり、いざ登山開始。ミニサイズながら一合目から順に案内板があり、要所要所に実際の富士山を模した名所も作られています。
石段を登り、まずは二合目にある「里宮」へ参拝。これは、富士山本宮浅間大社の本宮にあたるお宮です。白い御影石の社殿は、1985(昭和60)年に建て替えられたもの。
ここからは道幅が30cmほどに狭まり、石も不定形な「山道」といった雰囲気に。雨が降った後など、足下が滑りやすい時には注意が必要です。
道幅が狭く、行き違いができないこともあって、登山と下山の順路は別にされています。登山順路は青、下山順路は赤と判別もしやすいですね。
二合目の里宮から山体をぐるりと一周すると七合目。ここには洞が作られ、中に江戸時代の富士講指導者「食行身禄(じきぎょうみろく)」の像があります。
食行身禄は本名を伊藤伊兵衛といい、富士講の指導者として活動したのち、1733(享保18)年に江戸・駒込の自宅を後にして富士山に登り、七合五勺目(現在の吉田口八合目)にある烏帽子岩で断食行を行い、そのまま入定したと伝わる人。すぐ隣には烏帽子岩があり、この富士塚でもそれを再現していることが分かります。
烏帽子岩を過ぎた八合目から山頂までは一直線。ここまで来ると石段ではなくゴツゴツした石が重なっているだけ、という感じですが、筆者の前を歩く小学生は軽やかに登っていきます。地元で登り慣れているのかもしれません。
登り始めて数分。山頂に到着しました。この周囲はゴツゴツした溶岩ばかり。江戸時代の人々が富士山から苦心して運んできたものです。もちろん徒歩での旅ですから、信仰心なくしてはできません。
実際の富士山頂に浅間大社の奥宮があるように、富士山の溶岩に包まれた中には奥宮が鎮座。周囲にはお鉢廻の名所を模して金明水、銀明水、釈迦の割れ石などが配されています。
山頂から周囲を見渡すと、高さは境内にある能楽殿の屋根くらい。ビルにすると3~4階相当でしょうか。境内を見渡せる感じです。
この富士塚の順路は一方通行なので、登ってきた反対側から下山します。ゴツゴツした石が並ぶ狭い道は一緒なので、転ばないよう気をつけなければいけません。
富士塚の裏手にあたる四合目まで下り、山頂を振り返ると、願い事をする人の姿が見えました。今でも多くの人から信仰されているのが分かります。
無事に下山し、境内の外から富士塚を見てみると、石が幾重にも積み重なり、思った以上に岩山といった感じ。江戸時代の人々の信仰心が、文字通り積み重なっているように思えました。
富士塚は東京都内に限らず、全国に分布しています。地元の富士塚を探し登ってみると、昔の人が富士山をどのように信仰していたのか、少し分かるかもしれません。
<参考>
富士山本宮浅間大社 公式サイト
鳩森八幡神社 公式サイト
(取材・撮影:咲村珠樹)