2019年5月の践祚(せんそ)に先立ち、4月1日に新元号「令和(れいわ)」が公表されました。ここで少し、改元と元号についてのあれこれをご紹介します。
平成から令和の改元は、今から40年前の1979年に制定された元号法に基づく改元では2例目、また天皇一世につき一元号という「一世一元の詔」が示されてからは3例目となります。この「一世一元の詔」は、慶応3(1867)年に即位した明治天皇が、慶応4年を明治元年に改元する際に出された詔で、以後の改元はこれを踏襲するようになっています。
ちなみに明治天皇は、元服前の満14歳の時に先帝の孝明天皇が慶応2年の12月25日(旧暦)に崩御あらせられたため、元服後に行うしきたりであった立太子礼を経ずに翌慶応3年1月9日に践祚しています。つまり孝明天皇には皇太子がおらず、皇位継承権第1位である祐宮(さちのみや)睦仁親王が、皇嗣から直接天皇に即位(践祚)したわけです。しかも半月ほどは天皇不在の期間があったんですね。
慶応から明治への改元のきっかけは、天皇が元服したのを機に行われた即位の礼が終わったこと。この間の慶応3(1867)年10月に大政奉還が奏上され、天皇は勅許。江戸幕府の支配が終わり、いわゆる「江戸時代」が終焉を告げています。
1868年の明治改元の際には、旧暦9月8日に行われたのですが、その年の1月1日までさかのぼって適用されるものでした。今だったらシステム関連のエンジニアが、各地で悲鳴を上げたことでしょう……この当時の一般庶民は「甲子(きのえね)」から「癸亥(みずのとい)」まで60種からなる干支を用いて年を数えていたので、さかのぼって元号が変わっても、さほど影響はなかったようです。むしろ明治5年12月3日が明治6年1月1日になってしまった、太陰暦から太陽暦への改暦の方が大混乱だったようです。12月がほぼなくなっちゃうわけですからね。
天皇崩御後直ちに践祚を行うと正式に規定されたのは、1889(明治22)年制定の旧「皇室典範」第十条。続く第十二条には、践祚の後改元することが定められましたが、この時は「いつ」という時期は明示されませんでした。「践祚と同時に改元」となったのは1909(明治42)年公布の「登極礼」から。ところが1912(明治45)年に明治天皇が崩御したのが深夜23時近くだったため、践祚の儀式を執り行う時間がなく、やむなく「公式の」崩御を翌日にして切り抜けています。いつでも「想定外」のことが起きるものですね。
大正から平成にかけては、おおむね規定に沿って践祚と改元が行われました。とはいえ、大正時代では1921(大正10)年から皇太子裕仁親王が摂政宮となったり、先の御代でも1988(昭和63)年9月以降には体調が重篤な状態にあらせられたため、極秘で改元の準備が進められていたようです。
今回の改元は践祚にともなうものとはいえ、先帝が崩御されてのものではないため、明治改元のように「新しい門出」を象徴するものといえます。そのためか、今回元号の典拠はこれまでの漢語の典籍ではなく、国書(漢字仮名交じり文)の「万葉集」から採られました。とはいえ「万葉集」で用いられている仮名は、日本語の音を似た読みの漢字で表記する「万葉仮名」なので、見かけは漢字ばかりの文となります。新元号「令和」の文字が登場するのは、巻五の「梅花歌卅二首」の序文。天平2(730)年1月13日に「萃于帥老」の家での宴会で詠まれた歌を紹介する内容です。以下にその文と、現代語に意訳した文を記します。
天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也
于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
加以曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧 鳥封縠而迷林 庭舞新蝶
空歸故鴈 於是盖天坐地
(天平2年1月13日に萃于帥老のお宅で宴会をしました。時あたかも初春という良い月(令月)、風は柔らかくそよぎ、梅は鏡の前のおしろいのような花を咲かせ、蘭は風にのせてかぐわしい香りを届けてくれる。夜明けの嶺に雲がかかり、松は羅(網)をかけるのにちょうどいいような傾きを見せ、夕べには霧を結ぶ。鳥はついばむ穀物を探して林の中を分け入っており、庭には新たに羽化した蝶が舞っている。空には帰る雁が飛ぶ、そんな雰囲気の中、地面に立てた傘の下にみんな座って詠んだものです)
なんだか、のどかなお花見の風景が目に浮かんできますね。新しい「令和」の世が、このようなのどかな時代であることを願ってやみません。
<出典・引用>
万葉集 巻五
首相官邸2019年4月1日発表「菅官房長官・記者会見」動画
※見出し画像は「菅官房長官・記者会見」動画のスクリーンショットです。
(咲村珠樹)