こんにちは。様々な建物や街並に萌える「建物萌の世界」でございます。「東洋初の地下鉄」として知られる東京メトロ銀座線。12月30日で開業85周年を迎えます。てな訳で、今回はその地下鉄銀座線の沿線にある町を歩き、建物を見ていきましょう。
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1927(昭和2)年12月30日に開業したのは浅草~上野の区間。当時有数の繁華街だったのに鉄道の連絡がなかった浅草と、上野駅を結ぶことで安定した乗客を確保する計画だったんですね。12月30日という開業日も、初詣客を運ぶのに絶好のタイミングです。実際、乗客が殺到し、乗車待ちの行列が長々と続いたとか。並んでる間に歩けてしまうほどの時間でも並んだのは、浅草に新たにできたアトラクションみたいな感覚だったんでしょうね。筆者の祖母も並んで乗ったそうです。
さてこの銀座線。2.2kmの距離に、浅草、上野の他2つの中間駅が設置されました。これら4駅が、日本で最も歴史ある地下鉄の駅ということになります。その中で今回取り上げる駅は、起点の浅草……ではなく、銀座線で最も昇降客の少ない稲荷町駅です。
稲荷町駅を出たら、まず出てきた場所を振り返ってください。この地下鉄出入り口は開業当初から使われているもの。85年前のものとは思えないモダンデザインです。渋谷方面ホームにつながる側は2方向(1、2番出口)、浅草方面ホームにつながる側は1方向(3番出口)設置されていますが、これは取得した用地の面積によるもののようで、階段幅を考えると双方で出入りできる人数は変わらないような感じ。
タイル張りの幾何学的なデザインで、各表示はタイルに焼き付けられたもの。これは後年の補修で何度か張り替えられているようです。
デザインの基本は同じものの、渋谷方面と浅草方面では微妙に違います。階段奥の装飾は、幅の狭い渋谷方面では角型、幅の広い浅草方面は丸形のモチーフ。全体的に渋谷方面の方は幅が狭いせいか、窮屈さを感じさせないよう、外光が入りやすいよう工夫されているのが判ります。
東京メトロ(東京地下鉄)は先日、2017(平成29)年の開業90周年を契機に銀座線各駅のリニューアルを発表し、このうち浅草、稲荷町、上野はデザインコンペの募集が始まりました。しかし、この稲荷町の出入り口はリニューアルの対象外ということで一安心。浅草駅と同じく、開業当時の出入り口はこのまま保存・活用されるようです。
この辺り、現在は台東区東上野となっていますが、駅名の「稲荷町」は、当時この周辺が浅草通りを挟んで下谷区北稲荷町・南稲荷町となっていたから。その町名は下谷神社の旧称「下谷稲荷」にちなみます。現在の社殿は関東大震災で焼失した後、震災復興計画で区画整理がなされた1934(昭和9)年に移動し、再建されたもの。1798年に境内で初代三笑亭可楽が初めて「寄席」を開いたことにより、下谷神社は「寄席発祥の地」と呼ばれています。
その下谷神社の目の前。装飾が美しい不思議な家が建っています。住人の方にうかがうと1960(昭和35)年に建てたものとのこと。
特徴的なデザインですが、当時近所に住んでいた東京芸術大学の先生に頼んだら、スゴく熱心に取り組んでくれたそうで……一点もののテラコッタ彫刻などで覆われています。角には伊東忠太を思わせるゴブリンの顔などもあり、不思議ながらも質の高い芸術性を感じます。
下谷神社のご利益か、この一帯は戦災の被害をほとんど受けず、お陰で戦前の建物があちこちに残っています。たとえば、このような銅板建築の商家。
一見なんの変哲もないような事務所建築ですが、これもよく見てみると側面に張られたタイルが、昭和初期に特徴的なデザインのスクラッチタイル。表面にモルタルが塗られたせいで気付きにくいのですが、こういう部分で戦前からの歴史を主張している建物を見つけるのも、建物萌えの楽しみなのですよ。
浅草通りを挟んだ反対側、台東区役所の入り口には、こんな素敵な歯医者さんの建物があります。1929(昭和4)年築の銅板建築です。
基本は平入(屋根の尾根と平行の方向に入り口がある形式)なのですが、破風が大きい為に妻入(屋根の尾根と直角の方向に入り口がある形式)のように見えます。破風の部分から見える窓は3階に見えますが、ここは「屋根裏部屋」で実際は2階建て。関東大震災後の建築基準で、表通りに面した場所では3階建て以上の木造建築は禁止されたのですが、このような屋根裏部屋を設けることで、規制をすり抜けたのでした。
破風部分は、ハーフティンバーの構造材が美しいラインを描いていて優雅な印象。入り口の軒も同様のモチーフでまとめられています。
歯科医院の看板文字は木製。そこに金塗装がなされているのですが、よく風雪に耐えたなぁ……と感心しちゃいますね。
現在は建て替えられてしまいましたが、隣の床屋さんもつい最近までは戦前とおぼしき装飾のついた建物でした。看板の文字は以前の建物を踏襲しているのが、歴史を大事にしているって感じですね。
稲荷町に残る戦前の建築で、真打ちとも言えるのは、きっとここでしょう。唯一残った「同潤会アパート」、同潤会上野下アパートです。
同潤会は関東大震災後、被災者への住宅の供給と、新しい都市型住宅を「まちづくり」の一環として建設・供給する為に、震災義捐金の一部を原資に設立された財団法人です。東京、川崎、横浜で仮設住宅や普通住宅、共同住宅(アパートメントハウス)を建設したのですが、中でも共同住宅は日本で初めての本格的アパートメントハウスでした。ただ集合住宅を造るのではなく、ひとつの「町」としてコミュニティ作りを大事にした敷地計画、モダニズム建築を日本の風土にうまく適応させたデザインなど、日本の建築史・生活史に残る記念碑的建物群でした。
有名なところでは代官山アパート(現:代官山アドレス)や青山アパート(現:表参道ヒルズ)などでしょうか。青山アパートにはかつてスタルヒン投手が住んでいたり、取り壊しまでイッセー尾形さんが事務所を構えていたりしました。政治家も、元社会党委員長の浅沼稲次郎が清砂通アパート、小泉純一郎元首相の父、小泉純也が虎ノ門アパートや青山アパートに住んでいたことが知られています。
また、2006年の映画『ハチミツとクローバー』では、美大生の寮として取り壊し直前の三ノ輪アパートが使われ、最後の姿をスクリーンに残していますので、機会があったらご覧になることをお勧めします。
この上野下アパートは1929(昭和4)年4月30日竣工。1階にテナントの入った1号館と、住居専用の2号館に分かれたレイアウト(4階建て・合計76戸)で、表通りに面しているのは1号館。戦後分譲されましたが、賃貸だった戦前の家賃は1円80銭と2円50銭(1937年当時)だったそうです。
1号館は家族用の住戸ばかりなのですが、2号館は最上階の4階が独身者用の住戸が並んでいます。家族用の住戸は片廊下式なのですが、独身者用のフロアは廊下を挟んで部屋が並ぶ中廊下式を採用しており、その廊下の分、4階部分は外に張り出しています。
各戸の窓には丁寧にひさしが設けてあり、そこには物干竿を架けられる金具が作り付けられています。どこかの天井金具を引き合いに出す訳ではありませんが、80年以上経っても金具が脱落せず、ちゃんと残っているのは驚異的です。そして、ゴミを一括で収集できるよう、ダストシュートが設けられていますが、これは当時の生活では現実的でなかったらしく、早々に使用をやめたそうです。今でもゴミの圧送・一括処理が、東京の臨海副都心などで採用されましたが、色々な要因が絡んで(一括処理なので資源ゴミの分別ができない)うまく稼働しないようです。ゴミ処理の理想と現実のギャップは、80年以上前からずっと解決できない課題みたいですね。
敷地内にあるマンホールのフタも戦前からのもので、書体にとても味があって素敵です。
しかしこの唯一残った東京の歴史と文化を物語る記念碑的建物、同潤会上野下アパートですが、残念ながら2013年春には取り壊されてしまう運命にあります。ヨーロッパではアパートが重要文化財になったりしているのですが、日本では法的な問題(住人全員の同意が必要)や近代建築・集合住宅などに対する理解の不足など、様々な難しい事情があって、やむなく……といった感じです。今までに各地の同潤会アパートで保存の要請があったのですが、うまくいきませんでした。東京都の所有になった大塚女子アパート(日本における女性専用アパートの嚆矢)など、保存しやすい条件が整ったものもあったのですが……。
さて、この同潤会アパートの向かいにも、歴史を感じさせる集合住宅があります。先ほど下谷神社が「寄席発祥の地」と書きましたが、その地縁のせいか、この周辺には落語家が多く住まいました。近くに上野の鈴本演芸場や、浅草があることも影響したのでしょうね。同潤会アパート向かいに残る長屋も、九代目桂文治や「稲荷町の師匠」と呼ばれた八代目林家正蔵(彦六)などが住まい、通称「落語長屋」と呼ばれた建物。
元々は四軒長屋だったのですが、林家正蔵が住んでいた部分などは既に取り壊され、現在残るのは二軒分。そのうちの一軒には、近年まで落語家が住んでいました(既に死去)。こちらもいつまで残っているか、ちょっと先行き不安です。
戦前からの建物が残りつつも、現在徐々に数を減らしつつある稲荷町界隈。浅草まで初詣に行ったついでに途中下車して、消え行く「昭和の香り」を探して歩いてみてはいかがでしょうか。
(文・写真:咲村珠樹)