一昔前までは、「ちょっと出来が悪い子」「おっちょこちょいすぎる子」と見逃されていた発達障害。
子どもの頃は「そんな子もいるよね」で流されていた子も、大人になって生きづらさを感じるようになってやっと診断された人も多くいます。ここでは、大人になる前に診断された子どもを持つ母が体験してきたことを書き連ねていきます。
■ 発達障害と一括りにするけど実はかなり細かい
筆者こと私、2人の娘の母をしていますが、その二人ともが発達障害。発達障害と一括りにしていますが、細かく分類すると、アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム障害・ASD)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)、広汎性発達障害(PDD)、学習障害(LD)、トゥレット症候群、吃音、発達性協調運動障害など多岐にわたります。
それぞれの説明はここでは省略しますが、長女はASD、次女はADHDと診断され、精神手帳も交付されました。早い子なら何らかの発達障害があると気づかれるのは2歳ころ、大体3歳児検診辺りに何らかの指摘を受け、保育園や幼稚園などで、お遊戯が他の子と同じようにできない、すぐウロウロしてお絵かきも独特な描き方をする、ひとつのおもちゃにやたらこだわるなどといった感じで診察を勧められて診断に至る子が半数以上かと思います。
■ 女児は発達障害と気づかれるのが遅い傾向
しかし、女児の場合、保育園時代にそういった兆候が特になく、小学校低学年になってから現れやすくなる傾向が多い様子。私の娘たちも、それぞれ、小2の時に診断されました。二人とも、精神3級に相当すると言われ、精神保健手帳も交付。ちなみに、園児時代は二人ともお遊戯は大好きで踊りが得意、みんなと一緒にお絵かきや文字の練習、おもちゃで遊ぶときにも大きなトラブルはなく、先生らからも特にノーチェック状態でした。
■ 長女が診断された症名と、そこからの道のり
そんな二人のうち、まず兆候を見せたのが長女。当時私は看護師として働いており、育休を経てから外来勤務に入っていました。次女を出産してからは、老人デイサービスに移籍。そんなわけで、長女は学童保育所に入り、楽しい低学年時代と楽しい学童生活を送っていた、はずでした。
そんな長女の「みんなと違う」を教えてくれたのが、同じ学童保育の子の保護者。「(長女)ちゃん、学校から学童に帰る時に班の列から抜けて自分が気になることがあるとすぐそっちに行ってしまうみたい。何回か続いているみたい」とのことでした。そんな連絡を受けたのが、小1の冬。班行動なのに度々そんな行動が見られ、班長をしている高学年の子が長女の事を自分の親に相談し、そこで初めて「他の子と違う」に気が付いたのでした。
最初連絡を受けた私、当初は小児の精神保健とは全く別の部門で働いていましたが、教えてくれた保護者からの証言と、家での行動をよくよく観察すると、確かに変なものにこだわるかと思えば、物を乱暴に扱ったり、自分の思い通りにならないとひたすら拗ねるという事が。……もしかして、もしかするよねこれ。
ひとしきりネットで発達障害に当てはまるかどうかセルフチェックできるサイトをめぐって腹を括った私、小2の秋に当時働いていた病院の小児科で「思春期・発達外来」を担当していた医師の診察を受けさせました。膨大な量の問診票を書いて、当時の行動などを医師に伝えた結果、「アスペルガー症候群」。あー、やっぱりそうかー。
周りに隠していても誰にも助けを求められない、そう思った私は学校と学童に状況を説明、学童でも自分の気に入らない事があるとフリーズするという状態が、あの保護者から教えてもらった後から出てき始めた言動はASDに一致すると思うというようなことを話しました。
学童では、そんな事もありつつも、長女なりに学童生活を楽しんでいました。町内のお祭りで披露する和太鼓や踊りにも楽しく取り組んでおり、長女なりに大好きな場所だったようです。
■ 他害児童との衝突、そして居場所探しへ
長女には、「他の子と上手くいかなかったり、イライラしたりして固まっちゃうときは、静かなところで心を落ち着かせるようにしようね。他の子と(長女)とは、脳がちょっと違ってて他の子ができること、上手くいくことが(長女)の場合、できない事があるけど、これはそういう脳みそだから仕方ないから」と説明し、学校では自分の心が落ち着かない時には保健室に行くように学校側にも相談、サポートしてもらっていました。当時、通っていた学校には支援級はありませんでした。
そして小3の秋、事件が起こり始めました。2学年上の男児児童が学校でも学童でも暴れており、保健室で気持ちを落ち着かせようとしている長女と度々保健室で顔を合わせるようになり始めたのです。その男児もASDらしく、最近酷くなりはじめた、そして保健室にあるブロックを使って長女が心を落ち着かせている間に入り込んで、ブロックを横取りする、暴言を吐く、時にはブロックを投げつけたり直接暴力を振るうまでに至りました。同じ学童に通っていたこともあり、完全にロックオンされたのです。
他の子にも他害が激しい男児の親は、学童でも顔見知りとなっていたので、父母会の時にはお互いに「うちの子がすみません」とやり合っていたのですが……どうやら外面だけだったらしく、学童内でも問題が表面化するにつれて、私への態度も露骨に酷くなってきました。元ヤンあがりで一人息子を溺愛しているのが誰からも分かるような人だったので、結局はわが子可愛さが出てしまったのでしょう。
結局、長女は居場所を失い、一時不登校になりかけたのを私が付き添って登下校を続けた結果、学校には行けるようになったものの、以前と状況はすっかり変わり果てていました。仲良しの友達とすら交流せず、授業もそれまで真面目に受けていたのに全く参加できなくなり、ひとり浮いている状態。授業参観日にはその姿があまりにもいたたまれなく、「全部いじめられたせいで……」とその場の全保護者にぶちまけてしまいたい思いでした。思いとどまった結果、学校側と相談し、支援級のある近隣学区を見学することに。
2件目に見学した学校の支援級の雰囲気に「ここなら大丈夫そう」と、転校を決断。学校側に書いてもらった書類を区役所をとおして転校の許可をもらい、小4から2学区隣の学校へ通学となりました。
一方、長女の問題に一人で奔走していた私、度々次女が出していたSOSに気が付きませんでした。2つ下の次女は、小さい頃は長女が大好きで、長女と保育園に行くのに年少まで待てないほど。というのも、毎日の送迎は次女を連れて長女を歩いてすぐの保育園に送り迎えしていた事もあり、2歳の夏の終わりには「絶対一緒に保育園にいく!」と強い意志を見せていたほど。副園長先生に相談した結果、3歳未満児は働いていれば入園OK、ということで次女も無事同じ保育園に仲良くいくことに。
■ 次女のSOSとADHD発覚
長女の診断がおりて以降、当時の夫は発達障害について全く受容しようともしませんでした。選びに選んで買った、発達障害についての本も、私が一通り読んでネットで得た知識と照らし合わせたりなどもして、元夫にも「せめてこの本くらい読んで子どもたちの事を考えて欲しい」とお願いしても、全く本を触った形跡もなく放置されたまま。当然、子どもたちに対する態度も、以前は溺愛しているかのような態度だったのがすっかり変わり、子どもたちも「怖い」と言い始める始末。
そして、次女の「自覚無き問題行動」が度々起こるようになりました。それは、親の財布からお金を抜き取りゲームなどに費やすという行動。
次女は、やはり保育園では問題とみられる行動は一切なかったものの、自宅では物をよく壊す、至る所に落書きをする、不注意が多い。そして小1の2学期末、懇談会の後で見た次女の机の中にはぐちゃぐちゃに詰め込まれたプリントの数々。「あー、この子も“ある”な」と思い、診断を受けてADHDと診断されたのが小2。しかし長女の問題に追われていた私は次女に対してそれ以上のケアもできず、ある日自分の財布の中からお札が数枚なくなっている事に気が付き、元夫の財布からもお金を抜いていた様子。
当然問い詰める私。でも次女の答えは「自分でも分からない」。この行動と答えがSOSそのものだったと気が付くまでそんなに時間はかかりませんでした。ある日、自宅裏にあるコンビニに平日、一人ではだしで商品を持ち帰ったと私の勤務先に連絡が。あまりの事に泣きながら店長さんに次女と一緒に謝罪、食べたお菓子を精算したのでした。
ここでやっと、この子の発していたSOSに気が付いたのです。ADHDの診断に紛れてSOSまで受け止めきれなかった……元夫は「そんな事報告されても」。は?自分の子どもの事なのにこの人何言っているの??
■ もう無理だった、でも子どもを守らないと
私は腹を括りました。まずは子どもたちを守らないと。そのためにまずやるべきこと……。
長女が転校する前の学童にも行けなくなったのを見た次女も、同じく怖くなり「学童には怖い男子がいるところ」と頭の中に刷り込まれてしまいました。今度は次女を守るために、長女に必要な事をまずやらないと……。
学童の代わりになるような、軽度障害児をみてくれるところ……。いくつか見学し、話を聞いてもらったところの中に、元学童の指導員だった人が開設した放課後等デイサービス(放デイ)が1件見つかり、長女とともに訪れ見学させてもらいました。「第2の学童になりそう」ぼそっと、ひと言漏らした長女の言葉に思わず涙をこらえた私、隣の区にあるその放デイに託すことを決めました。その場で契約をし、学校からデイへの送迎もちょっと遠いながらも工夫して送迎します、と、今までの事を慰められ泣きじゃくった私は背中をさすられながら、長女を託すことに決めました。
そして、次女をケアするためにもう一つ長女に付けたのが、移動支援。2学区先の送迎を毎日行うのは、職場に相談して時短パートにしてもらってもやっぱりきつかったのです。その時に相談したのは、確か保健所の児童福祉の担当課だったような……何もかも一人でやっていたので、ここから先の記憶は途切れ途切れになっていますが、朝、自宅に迎えに来てもらって学校まで送ってもらうというサービスを得られると保健所から情報をもらい、そのまま近くの児童対象に移動支援を行っている事業所の一覧をもらったんだったっけ……?
ありがたいことに、若くて元気な女性のヘルパーさんが担当してくれる事業所にあたり、玄関先まで来てもらって契約してもらいました。長女も、そのヘルパーさんのことを気に入ってくれ、支援級のある学校への送迎も朝は移動支援、帰りは放デイの送迎で落ち着くことに。
そこから、次女へのケアを本格的に進めていったように記憶していますが、登下校はとりあえずできていた次女、帰ってきたら私がいる状態を作って、長女がデイから帰ってくる時間まで二人だけの時間を取ることをまず専念したんだったかな?
私自身も、その時にはうつ病と診断されていました。自分のうつ話は割愛しますが、そんな状態だったので記憶はおぼろげなところがほとんど。学童に行けなくなった次女にとにかく寄り添い、娘たちを理解しようとしない父親に対して怖い、という次女に対してどう答えたのか……記憶は飛んでいます。
長女が小5のいつだったか、「早く離婚してよ~」と二人にせっつかれた私、移動支援とデイに頼って約1年。その間に私は確か、長女の学区内に引っ越し先を探していたように思います。元夫との口論も絶えなかったかもしれません。そして、今も私の膝の上で寝ている猫たちはとても元夫のところには怖くて置いておくことはできない、そして子どもたちの何よりの支えになる、と、ペット可の賃貸を探し回っていました。そのころにはもう元夫に対して直接話すことすらできない精神状態。勤務先はギリギリまで確保しておいた方がいいという誰かの意見を頼りに、勤務日を減らしてもらい、平日に何度か物件を見て回って、ようやく見つかったのが長女が通っている学校のすぐ目の前。
■ そして脱出へ
1階には新しく放デイをつくる、というのでそこに決めたのです。引っ越し日を祝日のある日にロックオン。元夫は祝日は出勤する業態。一刻も早く抜け出したかった私は、3月半ばに契約し、少しずつ荷物を運び、引っ越し業者も手配し、元夫が帰ってくる前に引っ越しを完了させることができました。段ボールだらけの新居で、久しぶりに3人で「平和になったね」と笑顔で言い合ったのだけははっきりと覚えています。
ここから先もまだまだ娘たちは問題山積で、私はうつの治療と一緒に離婚調停の長い闘いに明け暮れる日々となったのですが、だいぶ話が長くなってしまいましたのでこの辺で。
もし、夫が同じ方向を向いて同じ気持ちでスクラムを組むことできていたら……ここまで娘たちが傷つくこともなかったでしょう。何度も何度もお願いしてもスクラムが組めなかった事で、何度も自殺や心中を考えた私ですが、普通じゃない子どもたちを置いていった結果、子どもたちが不幸になることは目に見えていたのもあって生きてこれたので、もし、今同じような不安を抱えている人がいたら、「こう言う人もいるんだ、生きていれば何とかなるのかも」って思っていただけると幸いです。遠方の実家と役所、関係各所にはだいぶお世話になりました。
(梓川みいな)