こんにちは。様々な建物や街並に萌える「建物萌の世界」でございます。前回は皇族の邸宅をご紹介しましたが、今回は民間人……といっても、かつての財閥総帥の邸宅をご紹介。ただこの邸宅、ちょっと変わったいきさつと構造を持つ建物です。
東京郊外、小金井市にある「江戸東京たてもの園」。こちらには、貴重ながらも現地保存が困難になった様々な建物が移築されている、野外の建築博物館です。色々語りたい建物はあるのですが、それは別の機会に譲るとして、今回はこの建物に行ってみましょう。入り口から左の方、西ゾーンへ進んでいくと、門のついた立派な家が見えてきます。……これが今回ご紹介する「三井八郎衛門邸」です。三井八郎衛門というのは財閥・三井家(総領家)の当主が代々名乗る名前で、これは戦後の財閥解体を経た1952(昭和27)に、第11代当主の高公(たかきみ)氏が建てたものです。かつては麻布笄(こうがい)町……現在の港区西麻布3丁目、麻布税務署の裏手辺りに建っていました。……ちなみに、現在跡地に建っているのは三井不動産ではなく、三菱地所の分譲マンション。江戸東京たてもの園には、1996(平成8)年に移築されました。
門から建物までの距離とかは当時と異なっているようですが、見るからに邸宅……という感じの日本家屋ですね。さてこの邸宅。立派なのはすぐ判りますが、ちょっとした特徴があります。それをご説明する前に、この邸宅が建てられたいきさつをご紹介しましょう。
以前の三井邸は麻布区今井町(現在の港区六本木2丁目、アメリカ大使館宿舎になっている場所)にありました。1908(明治41)年に竣工した今井町の邸宅は、能舞台まであるような広大で立派な屋敷だったのですが、戦災で一部を残して消失してしまいます。一家は大磯にあった別荘「城山荘(じょうざんそう)」などに疎開して生活していましたが、戦後今井町邸敷地がアメリカに接収された為に、別の場所に屋敷を建てることになりました。そこで建設されたのが、この麻布笄町(西麻布)邸です。
建設にあたって、明治初期まで三井家の本邸としていた京都・油小路邸と大磯の別荘、そして世田谷区用賀にあった三井家関連施設と、今井町邸で戦災から逃れた部分の部材や石材(庭石など)、樹木を集めて使用することになりました。……つまり、4つの建物のパーツを1軒に再構成しているんですね。『ウルトラマンA(エース)』最終話に、今まで登場した代表的な超獣の特徴を寄せ集めて1体に再構成した合成超獣、ジャンボキングが出てきましたが、この邸宅はそれと似たような特徴を持っているのです。ある意味、各建物の「ええとこどり」をしているということもできるでしょう。そして、敷地の都合もあったのでしょうが、江戸東京たてもの園に移築されたのは、そんな西麻布邸の一部にとどまっています。実際にはもう少し広かったようですね。
建物の平面構成は、玄関から伸びる廊下の両側に部屋が並ぶ、いわゆる「中廊下式」という、現代の住宅に繋がる近代日本家屋の構成になっているのですが、面白いことに廊下を境に庭に面した南側は旧来の木造、反対の北側はコンクリート(ブロック)造という形になっています。建物の作り方についても、木造とコンクリート造を合わせた構造になっているんですね。
中に入ってみましょう。玄関を入った広間にはラリックの照明「ボール型のヤドリギ」が。まるっきり球体だと電球交換が困難なので、上下でパーツが分割されています。ラリックならではの型押しガラスが美しい優品ですね。足元に目を向けてみると、床は寄せ木の模様が。
まっすぐ廊下が延びていますが、そちらには行かずにいったん左側、庭に面した方へ向かう入側(いりかわ)に歩を進めてみます。これは来客が案内されたとの同じルート。入側は一見廊下のようですが、これは外に面する縁側(広縁)に当たる部分です。畳の上に絨毯が敷かれ、天井は格式の高い格天井。奥には櫛形窓が配されています。ここは京都・油小路邸から移築された部分で、桂離宮をデザインモチーフにしたと思われているようです。
庭に臨む形で配されたのは、書院の客間と食堂。調度品も含めて油小路邸の奥書院「四季の間」だった部分で、本来は4部屋が田の字に配置されていました。この西麻布邸建築にあたり、そのうちの2間を用いて再構成しています。
客間には奥行きのある床が真ん中にあり、独特な構成。向かって右側にある違い棚は、正方形に近いスペースを活かして、通常棚板を同一平面上に配置して高さだけを違えるところ、わざと前後にもずらして、さらに立体的にしているのが興味深いですね。案内してくだすったボランティアの方によると、椅子の材質はカリンで、形状や当時(油小路邸ができた明治後期)の加工技術を考えると中国の家具をリフォームしているようだ、とのことです。確かにデザインなどは中国趣味なかんじですね。畳に絨毯を敷いて椅子……というところを含めて、様々な部分を取り入れた無国籍な雰囲気が漂う空間です。
隣の食堂も同様な構成で、畳に絨毯敷き。そこに椅子とテーブルが配されています。天井は格天井で、客間との間には月の字欄間。ふすまなどに描かれている絵は、明治期に京都で活躍していた円山四条派によるものです。日本の伝統と外国趣味が一緒になった、なんとも独特な空間ですね。
入側に沿ってぐるっと書院を回ると、玄関から伸びる中廊下にたどり着きます。廊下の北側には台所などが並ぶ、いわば来客の目には触れない空間。この台所は、書院の伝統的日本建築と違って、白を基調としたモダンな造りになっています。この部分、建物の構造がコンクリート造のせいか、どことなくバウハウス的な合理主義が感じられる場所ですね。
2階に上がってみると、いきなり廊下の奥にある豪勢なシャンデリアが目に飛び込んできます。これは日本初の銀行である第一国立銀行にふたつあったシャンデリアの片方だとか。もともと第一国立銀行は、三井(と小野)による私設金融機関として設立されて、日本橋兜町の三井組ハウス(施工は清水建設の前身、2代目清水喜助)で営業を始め、国立銀行条例施行後に国に移管されたもの。三井組ハウスは1897(明治30)年に取り壊されましたが、その際にシャンデリアを引き取って保存したのでしょう。ここに移る前は、大磯の別荘「城山荘」で使われていました。
大磯時代は3階ぐらいの高さを持つ吹き抜けの居間に下がっていたのですが、ここでは高さが足りないので、この部分だけ二重折上格天井(にじゅうおりあげごうてんじょう)という、最高級の格式を持つ天井になっています。一応、このシャンデリアは仏間の正面に位置しているのですが、格式というよりも高さを稼ぐ為に、便宜的にこの天井にしたんでしょうね。これでも背の高い人は、シャンデリアに頭が触ります。
仏間は代々の三井家当主が趣味(といっても玄人はだしです)で作った焼き物やふすま絵、剪綵(せんさい。色糸の刺繍や絹の裂をパッチワークした手芸の一種)の天井画で飾られた、華麗な空間だったりするのですが、残念ながら写真撮影は禁止。ここはぜひ、実際にご覧になって頂きたいものです。……しかし、この部分は北側なので、当然のことながら躯体はコンクリート。でも外壁も内部も木を組んで貼り付けていて、コンクリートであることを感じさせず、木造日本家屋の雰囲気を崩していないのが面白いところです。
廊下を挟んだ向かい側は、当主であった三井高公(たかきみ)夫妻の寝室が並んでいます。ここは廊下からダイレクトに入るのではなく、次室(つぎのま)のような踏み込みがあって、それを挟み込むように部屋の入り口が向かい合っている構造。
どちらも庭を見下ろすロケーション。高公氏の寝室にはベッドと重厚な机があり、書斎的な性格もあったようですね。高公氏は1992(平成4)年、このベッドで亡くなったそうです。鋹子(としこ)婦人の寝室には一段上がった小さな部屋があり、ここで趣味の剪綵ができるようにしてあります。途中にしたままでも、部屋に影響ないように……ということでしょうか。明かり取りが入ったふすまがおしゃれですね。
さて、この邸宅は来客を迎える空間である「オモテ」と、家族のプライベートスペースである「ウラ」との区別がはっきりついているのも特徴です。そこかしこに三井家の家紋をモチーフにした装飾があるのですが、一例として「五三の桐」と「窠(か)」の紋をデザインした釘隠しは、同デザインながら書院などオモテには七宝、そしてプライベートスペースであるウラには彫金のものが使われています。
プライベートスペースには客が来ない……という部分は徹底していて、夫妻の寝室の入り口には、再利用された建築部材のうち、金具が付いたままのものまで使われています。それにしても、使わない金具くらい取り外して使えばいいのに……。
庭から見た姿は抑制の利いた印象で、桂離宮に似た雰囲気がありますね。油小路邸や今井町邸も、こんな雰囲気を持っていたんでしょうか。並んで建っている土蔵は今井町邸、そしてこの西麻布邸と三井家が移転するたびに移築されたもの。元々は日本橋の三井越後屋(現在の三越)の絹蔵だったという話が伝わっており、三井家でも非常に大切にされてきた建物のようです。
庭にも油小路邸や今井町邸など、三井家に関わる様々な施設から庭石が集められていますが、印象的だったのが濡れ縁に面した巴型のつくばい。来歴は判らなかったのですが、とてもいいたたずまいを見せていました。来客が使ったりしたんでしょうね。
日本三大財閥と称された三井財閥。戦後の財閥解体で三井家は実権を失ってしまいますが、この邸宅は過去の三井邸を再構成することで、かつての栄華を今に伝えています。
(文・写真:咲村珠樹)