こんにちは、咲村珠樹です。9月は1日が関東大震災にちなんだ「防災の日」、そして11日は東日本大震災が発生してちょうど半年と、地震の他、先日の台風12号など災害を思い出させる月となりました(9月11日は、アメリカ同時多発テロから10年でもありますが)。今回の「建物萌の世界」は、関東大震災に関係した建物に行ってみたいと思います。
東京は両国。国技館のすぐ近くに横網町公園があります。
ここは江戸時代、1872(明治5)年に廃止されるまで幕府の米蔵(本所御蔵)だった敷地に、1919(大正8)年まで陸軍の被服廠(軍服等、軍の服装関係のものを取り扱う施設)が設置されていました。その被服廠が赤羽に移転した後、陸上競技のトラックを備えた公園や学校、役所などを作る再開発計画があり、関東大震災当時はちょうど更地になっていたのです。……という訳で、当日は火災で焼けだされた人々が、ここを避難場所として大勢集まってきていました。ところが、更地になっていたのが災いします。錦糸町付近、そして深川・森下付近で大規模な火災が発生。折からの強風で強まった火勢は、燃焼に必要な酸素を求めて開けた場所……更地である被服廠跡地を目指して四方から向かってきます。これらが一気に敷地に流れ込み、火災旋風(炎や、炎の形態を取れないほど高速・高温のガスによる竜巻)を発生させて、避難民を飲み込んだのでした。火災旋風は上野(松坂屋や現在の京成上野駅付近)などでも発生しましたが、犠牲者が一番多かったのがこの被服廠跡地でした。
死者3万8千人は、関東大震災での東京府(当時)の全死者・行方不明者の半数以上を占めます。遺体はやむを得ず、その場で火葬(野焼き)されたそうですが、全て終わるまで半月ほどかかったとか。そして遺骨をいったん収容する納骨堂が建てられました。……これにより、計画されていた公園は陸上競技のトラックを備えた「運動公園」から、関東大震災の犠牲者を追悼する公園へと変わったのです。
という訳で、今回はこの公園に建つふたつの建物をご紹介しましょう。
まずはこちら。復興記念館です。1931(昭和6)年完成で、設計者は伊東忠太。震災復興事業が完了したのを記念して開催された「帝都復興展覧会」に出品された展示品や、被災した品々、各国からの支援物資など、関東大震災に関する資料が公開されています。また、戦後からは1945(昭和20)年3月10日未明の東京大空襲をはじめとした戦災関係資料も、あわせて展示されるようになりました。
正面から見ると、昭和初期の建築ではおなじみ、スクラッチタイル張りの外壁に、ギリシャ・ローマ的な列柱(オーダー)を思わせるようなデザインがなされています。……その柱の上に何かが乗っていますね。
よく見てみると……ガーゴイル(雨水などを吐出する訳ではないので、正確にはグロテスク)です。建物を守る西洋の妖怪ですね。瓦屋根の上にも狛犬というか、獅子のようなものが乗っています。
どちらも、妖怪や幻獣の一般的なイメージから離れた、ちょっと丸っこくて愛らしい姿ですね。設計者の伊東忠太は、こういった妖怪や動物のモチーフを好んで建物にちりばめるのが特徴です。
窓は縦長で、外光を大きく採り入れて展示室を明るくできるように設計されています。上には花瓶のような装飾も。窓にはまった、幾何学的なモチーフの格子も印象的です。
こちらが正面の入り口。壁の石材が重厚な印象を与えています。
内部は原則として撮影禁止なので、内部をご紹介できないのが残念ですが、2階の展示室は天窓(トップライト)からの光がさんさんと降りそそいで、やはり明るい印象です。この当時、なるべく外光を採り入れて自然光で展示室を明るくし、来館者が鑑賞しやすいようにしよう……という考え方で、博物館や美術館は設計されていました。以前ご紹介した、上野の国立科学博物館(第三回「科学の殿堂」参照)もそうですし、戦後に作られた国立西洋美術館も同様の考え方で、天井から自然光が降り注ぐトップライトが作られています。
ところが、現在では太陽光に含まれる赤外線や紫外線が、展示品を傷めてしまうことが判ったので、作品を保護する為、展示室には逆に外光を直接入れないようにして、人工の照明(特にLEDは有害な光線を含まないので理想的)を使うように設計方針が変わりました。国立科学博物館や国立西洋美術館も、現在では改装されて天窓をふさぎ、その場所に照明器具を入れています。復興記念館の場合、そういった改装がなされていないので、戦前のままの状態と言っていいと思います。展示品も基本的に開館当時の姿のままですし、出口のサインは木製の表札で「口出」と文字が右から書かれており、なんだか戦前から時の流れが止まっているような感じ。
展示室内部をご紹介できないので、屋外の展示物を少しご紹介しましょう。多くは火災で被害を受けたものです。目立たないところにありますが、日本橋・丸善ビルのグチャグチャになった鉄骨(左写真)などは、火災の猛威を良く示していると言えるでしょう。この丸善ビルは地震の揺れでは倒壊しなかったものの、その後の猛烈な火災の熱で鉄骨が溶解し、強度を失ったことで崩壊しました。ちょうどアメリカ同時多発テロで、世界貿易センタービルが旅客機が突っ込んだ衝撃では崩れず、その後発生した火災で鉄骨が溶解し、崩壊に至ったのと原理は同じです。右の写真は、東京高等商船学校(現:東京海洋大学)にあった教材用の魚雷のなれの果て。これだけ炎にさらされても爆発していないのは、教材用で内部の爆薬が取り除かれていたからでしょう。何故「商船学校」に魚雷があったのか、ですが、当時主要な商船学校には海軍士官学校の予備課程が設置されていた為だと考えられます。
東京に於ける自動車登録第1号だった自動車の残骸もありました。これも火災で車体が跡形もなくなり、エンジンとシャーシだけが焼け残ったものです。
さて、多くの犠牲者を出した関東大震災でしたが、その慰霊の為に建物ができました。今回ご紹介するもうひとつの建物、東京都慰霊堂です。完成時は「震災記念堂」という名前でしたが、戦後に東京大空襲で亡くなった方も併せて慰霊することになり、現在の名称になりました。
これについては当初、設計案が公募されました。建設にかかる経費は当時のお金で65万円以内(主に寄付金でまかなう)という条件で、1等賞金3千円。前田健二郎による、その1等当選案は灯台のような建物だったのですが、最終的に伊東忠太の設計によって、現在のような和風の寺院建築のような姿になり、1930(昭和5)年に完成しました。これと時を同じくして、公園が開園しています。当初は「震災記念公園」の名称もあったようですね。
後ろに見える塔は高さ135尺(約41m)。基壇部には、関東大震災で亡くなった方5万8千人あまりの遺骨が納められました。戦後になって、東京大空襲で亡くなった7万7千人あまりの遺骨も一緒に納められています。
こちらの建物にも、壁面にガーゴイルとおぼしき装飾や、屋根の上には丸っこく愛らしい鳳凰(?)が乗っています。
この建物は鉄骨コンクリート造なのですが、参拝する人の目につきやすい講堂(慰霊堂)入り口部分の軒、垂木などは木材が使われています(上層部の軒や垂木はコンクリート)。この辺りは伝統的な木造の仏教寺院建築を意識した感じですね。
こちらは内部撮影ができたので、内部も見てみましょう。
関東大震災の9月1日、そして東京大空襲の3月10日に慰霊祭が行われる講堂です。高い天井は折上格天井(おりあげごうてんじょう)という、格式の高い形式になっていますね。照明は九曜紋をかたどったもの。
格天井を構成する枠組みの内部、格間(ごうま)と呼ばれる部分にはこのような文様が描かれています。
こちらは祭壇。木魚、鉦、香炉に花と、完全に仏教様式です。内部には、関東大震災で亡くなった方、東京大空襲で亡くなった方の位牌が並んで安置されています。幕に染め抜かれたいちょうマークでお判りの通り、一応東京都が絡んでいる(建設後、建設主体だった東京震災記念事業協会から当時の東京市に寄付され、現在は都の外郭団体が管理)んですが、政教分離ってのはどうなってるんだろう……とちょっと考えてしまいますね。靖国神社の問題もありますが、日本人は本来宗教を厳密に考えていない、という面を表しているのかもしれません。しかし、このように1930(昭和5)年当時、慰霊施設が神社ではなく仏教様式で作られ、それを当然のように市民が受け入れていたというのは、いわゆる「国家神道」や「神国日本」という思想がまだまだ当たり前になっていなかった、と考えることができると思います。
講堂内に設置された椅子は、銘板を見ると建てられた当時である昭和初期のもののようです。復興記念館同様、内部は時が止まったような空間ですね。そして、今までの流れから考えると当然というか、側面には卍の文様が彫刻されています。反対側は鏡像、いわゆる逆卍になっていますが、そちらの画像を載せるとハーケンクロイツと勘違いされそうなので、卍の側だけ。
講堂の側壁には、関東大震災の被害を後世に伝える為の絵画が掲げられています。
左は鎌倉・小田原を襲った津波を描いたもの。右はよく知られた、浅草の「十二階」こと凌雲閣が崩壊する様子。津波の方は、現代の我々からすると火災のイメージが強い関東大震災を考え直させるようなシーンですね。復興記念館に展示されている地震発生時の記録も、知らなかったことがたくさんあって、特に東日本大震災を経た目で見ると「なぜこのことが知られていなかったんだろう」と考えさせられることしきりでした。
この被服廠跡を撮影した生々しい写真もありましたが……白黒(一部彩色)ですらこれですから、もしカラーの映像だったら……凄惨な光景です。
大正時代のまだ仮設の納骨堂だった時代に、当時の皇后陛下(貞明皇后)が弔問にいらした際の写真ですが、右上のスタンプを見ると、元画像はなにかお土産品のようなものだったのでしょうか。「参拝記念」の文字で、当時ここが一種の名所となっていたことが判ります。恐らく、こういったものを販売したりして、この慰霊堂の建設費用にする為の寄付を募っていたのでしょう。
寄付といえば、当時中国の人々から贈られた鎮魂の鐘「幽冥鐘」も公園内に設置されています。
関東大震災の記録などを展示した復興記念館は、東日本大震災後に来館者が増加したそうです。大地震を経験して、88年前に起こった大地震のことを思い出し、追体験しようと思った人が増えたということでしょうか。我々はいつもそうですが、災害というのは起こってから、過去の教訓を思い出すものなのかもしれません。
昭和初期の雰囲気をそのままに、関東大震災後に叫ばれた「備えよつねに」の言葉を今に伝えるふたつの建物が待つ横網町公園。どちらの建物も無料で入れるので、一度訪れてみてはいかがでしょうか。
(文・写真:咲村珠樹)